【短編集】人魚の島
「ホントはね、お母さんに真実を告げようと思ってたのよ。この世界は仮想現実(バーチャルリアリティ)がつくりだしたニセモノだって。お母さんはとっくの昔に……」
「この世界はニセモノなんかじゃない。ここは……」
優は周囲の事物を開いた両手で示して、
「ここは、俺と奈々がいた、現実の世界だ」
なおも優がにらむと日向子はつと目を逸らし、ぎらつく空を見上げてポツリとつぶやく。
「この世界の夏はずっと終わらないのね。お母さんは何度、お父さんの試合の応援に行ったの?」
優は押し黙ったまま、答えようとしなかった。
夏が過ぎ──
そして、またあの夏が始まる。
地方予選の準々決勝。
九回裏、二死、ランナーはなし。得点は三対三の同点。
バッターズボックスに相手チームの四番打者が入る。六回裏の攻撃で同点のタイムリーをたたきだしたのはこの四番打者だった。
優はギュッとボールをにぎる。
キャッチャーが内角にミットをかまえる。ピッチャーマウンドにほこりっぽい風が吹きつけてきて、優のユニフォームをはためかせた。
仮想現実(バーチャルリアリティ)ではあっても結果は毎回、微妙に変化する。この試合に勝てるかもしれないし、前回のように負けるかもしれない。ただ、ひとつだけ、結果を変えられないものがある。
俺は絶対に甲子園へ行けない──優にはそれがわかっていた。システムがそういう状況を想定していないのだ。
現実世界の優も地方予選で敗退した。甲子園を目指したあの暑い夏を優はいまでもよく憶えている。優の人生でいちばん輝いていた夏だった。
だからこそ、優はこの夏を繰り返し体験している。奈々といっしょに、何度も、何度も。
ひとがまばらなスタンドに目をやると、奈々が口に手をあてて声を限りに声援を送ってくれていた。
優は微笑む。
奈々の姿をしっかりと目に焼きつけて、ゆっくりと振りかぶる。
四番打者がこわい目つきでにらみつけてくる。
ひるんだりしない。全力投球あるのみだ。
(奈々、おまえがいてくれたから俺の人生は楽しかったよ……)
余命半年。
医者が優に告げた診断は、無味乾燥で残酷だった。
自分の死期を悟ったあとで唯一興味を持てたのが、仮想現実(バーチャルリアリティ)の世界で死者と再会できる、人格シミュレーションのシステムだった。
奈々は、日向子が成人した直後に交通事故で亡くなった。もう五十年以上も昔のことだ。
あのときのことを──病院からの突然の電話で奈々の死を告げられたあの瞬間のことを、優は痛みとともに記憶している。その痛みは、いまでも胸の奥深くにこびりついている。
あれから娘の日向子とふたりで暮らしてきたが、いまや優も奈々のあとを追おうとしていた。
いまさら寿命が尽きることを恐れたりはしない。
ただ、気がかりなのは──
(マスターである俺が死んだら、この世界も消えてなくなる)
優は腕を後ろに引く。ボールをにぎる指に力がこもる。
(だから、そのときが来るまで、俺はいつまでも、この夏を……)
優の指先から放たれた白球は、キャッチャーがかまえるミットに向かって一直線に突き進んでいった。