【短編集】人魚の島
終わらないこの夏の日に
青空に白球が舞う。
きれいな放物線を描いたそれは、観客の少ない外野スタンドへと吸いこまれていく。
途中まで必死になってボールを追いかけていたレフトが、あきらめ顔で見送る。ボールは芝生席に落ちて、転々と転がった。
どっと歓声があがる。
サヨナラホームラン。
満面の笑みを浮かべて三塁を回る四番打者が、ホームベースで待ち構えていたチームメイトから手荒い祝福を受ける。
内野スタンドで試合を観戦していた奈々は思わずシートから立ちあがり、ピッチャーマウンドでうなだれる優(ゆう)を見つめる。距離があって細かい表情まではわからなかったが、優は泣いているようだった。
「優……」
奈々の背後に陣取っていた応援団とブラスバンドの面々からいっせいにため息まじりの嘆声が洩れる。
甲子園を目指した優の夏は、地方予選の準々決勝で終わった。
──高校最後の夏だった。
バス停から家までの帰り道、優とはほとんど会話を交わさなかった。
ユニフォームから学校の夏服に着替え、重そうなボストンバックを肩に下げた優は、さっきから不機嫌な顔で黙りこんでいる。
奈々がなにを話しかけても優からは生返事しか返ってこない。慰めの言葉をかけるのがためらわれて、奈々は口をつぐむ。
坂の上の十字路でふたりは立ち止まった。ここから先はそれぞれの家の方角が違う。今度こそなにか言わなくちゃ、と思った奈々は、あわてて言葉を探すけれど、思うように口が動かない。それが、ひどくもどかしい。
ふたりのあいだの気まずい沈黙を破ったのは、優の方だった。
「……甲子園に行けるとは思ってなかったよ」
優は自嘲気味のしなびた笑みを浮かべる。いつもの優らしくない、と奈々は思う。あれほど野球に打ちこんでいたのに、こんなことを言うなんて……。
「でも、ここまでこれたんだ。満足だよ、俺は。俺にしては上出来だった」
「……優はがんばったよ」
それだけ口にするのが精一杯だった。そのあとが続かない。なんて自分は不器用なんだろう、と奈々は悲しくなる。
言葉で伝えることができるのは本当の気持ちのごく一部分だけ。言葉だけでは言いたいことの半分も表現できない。いつも、いつも、言葉が足りない……。
優は日焼けした顔に白い歯を見せて笑顔をつくる。今度はごく自然な笑顔だった。
「ありがとな、奈々。試合、いつも見に来てくれて」
「……うん」
優は「じゃな」と手を振って十字路を右へ折れ、歩み去っていく。奈々は手を振り返して彼の背中を見送る。自分はいまどんな表情をしているんだろう、といぶかしみながら。
優が次の十字路を曲がって姿が見えなくなると、奈々の口からため息が洩れた。額に浮かんだ汗の玉を手の甲でぬぐう。蝉の合唱がうるさい。空に浮かんだ入道雲の白さが眼底にしみた。
自分の家に向かって歩きだす。
背後から声をかけられた。
振り向くと、若い女性が立っていた。二十代後半ぐらい。ひまわりの大輪の花が鮮やかな、黄色のワンピースを着ている。
(この女のひと、見覚えがある……)
女性がにっこりと微笑む。笑顔になると、ますます既視感が強まった。
「あの……どこかでお会いしませんでしたか?」
と、奈々。
「え?」
女性が目をしばたたく。小首をかしげて、
「わかるの、わたしのことが?」
「いえ。……その、以前にお会いしたことがあるような気がしただけです」
「そう」
女性は口辺に微苦笑をちらつかせ、穏やかな口調で、
「そうね。あなたとは会ったことがあるかもしれないわね」
「わたしになにかご用ですか?」
とたんに、女性の顔から笑みが消えた。まるで科学者が実験対象を観察するような、真剣な眼差しで奈々をじっと見つめる。
「あなたに話したいことがあるの」
「わたしに?」
「そうよ。いまのあなたは……」
そこから先が途切れる。女性はためらう素振りを見せ、中途半端に口をモゴモゴと動かす。ややあって、ため息をひとつ。表情を緩めた。
「あなたは夏が好き?」
唐突な質問を投げつけられて、奈々は返答に窮する。
「わたしは……」
「優君、残念だったわね」
(どうして優のことを知ってるの?)
問いつめようとしたが、どこか物悲しげな女性の視線とぶつかって、言葉が喉の奥につまってしまう。
「優君のこと、好き?」
(なんでそんなことを……)
なにも答えなかったのに、無言であることがかえって奈々の正直な気持ちを相手に伝えたようだ。女性は軽やかな笑い声をあげる。
バカにされたような心持ちがして、奈々は女性をにらみつけた。
「怒らないで。あなたをからかうつもりはなかったのよ」
女性は微笑み、ペコリと頭を下げた。
「ヘンなことばかり言って、ごめんなさいね。じゃあ、わたしはこれで……」
くるりときびすを返し、女性は去っていく。一瞬、追いかけようと思ったが、ひまわりが揺れる彼女の背中を見守っているうちに、言いしれぬ不安が高まってきて、自分の肩をギュッと抱く。
モヤモヤとした既視感はまだ残っていた。彼女とはどこかで出会ったような気がするのに、思いだそうとしても記憶の迷宮からはなにも浮かんでこない。
短い吐息をつく。女性はもういなくなっていた。
歩きはじめる。ゆっくりと。
電信柱でさかんに鳴いていた蝉が、甲高い悲鳴をあげて空中をふらつく。熱気をはらんだ風が押し寄せてきて、奈々の頬をただれた舌先でなぶった。
(誰なんだろ? わたしと優のことを知ってるみたいだった……)
誰かに見られている気がした。立ち止まり、肩越しに振り返る。
昼下がりの街角にひと気はない。アスファルトの路面からゆらゆらと陽炎が立ち昇り、路肩に停まったクルマの影が水面に映った像のように揺れている。
奈々の口許から、ふと笑みがこぼれた。女性に向かって口にできなかった答えを、胸のうちで反芻する。
(わたしは夏が好き。だって、優がいちばん熱くなる季節だから)
額に手をかざして空を振り仰ぐ。夏の空は青く、どこまでも透きとおっている。
(それに、優のことも……)
空が、とても高い──
奈々と別れた女性が住宅街の狭い道を歩いていくと、少年がひとり、自販機に背中をもたれて彼女を待ち受けていた。
優。
鋭い目つきで女性をにらみつけている。
優の姿を目にして、女性が顔をほころばせる。
「こんにちは、お父さん」
お父さん、と呼ばれて優は眉を逆立てる。自販機から背中を離して、
「こんなところまでなにしに来たんだ、日向子(ひなこ)? おまえはインチキ呼ばわりして、俺がやることにいつも反対してきたじゃないか」
日向子と呼ばれた女性──優の愛娘(まなむすめ)──は小さく首を横に振る。
「せっかくだから、この世界にいるお母さんに会いにきたのよ。わたしのことがなんとなくわかるみたい。不思議ね。わたしはお母さんが二十六歳のときに生まれたのに。自分の娘だという直感が働くのかしら」
「バカな。奈々の記憶を生成したときのフィルタリングが不完全だったんだ。高校生の奈々におまえのことがわかるはずはない」
日向子は口をへの字に曲げた。