【短編集】人魚の島
ヒーローは黙して語らず
「先生、僕は世界を救うヒーローなんです」
こんなことを面と向かって言われたら、誰だって面食らうだろう。
私だって例外じゃない。絶句した。
目の前に座る生徒──田村瞬を、私はマジマジと見つめた。
私を見返す田村の眼差しは、真剣そのものだった。
今年で三十二歳になる私は、進路指導の副主任を担当している。
私が受け持つ二年生は、再来年に控えた大学受験に向けて、早くも予備校にかよっている者が多い。
そんな生徒のなかで最近、気になる者がいた。
田村瞬。
特段、成績が優秀というわけでもなく、クラブ活動とも無縁な彼は、クラスでも目立たない存在だった。
その田村の様子がどうもおかしい。彼の異変に気づいたのは私だけではない。彼のクラスの担任も、学年主任の先生も、口をそろえて「田村は最近、ボーッとしてる」と告げる。いまも放課後の職員室で、数学の先生が「まったく授業に集中してない」とこぼしていた。
なにか深刻な悩みでもあるのだろうか? 今度、本人にそれとなく尋ねてみよう。
タバコを吸いに職員室を出た。すると、その田村瞬がドアのところで私を待ち受けていた。
おりいって相談したいことがある、という。
どこか思いつめた表情。唇を軽くかみ、眉間にはシワを寄せている。
私は職員室の隣の進路相談室のドアを開け、田村を招きいれた。彼を椅子に座らせ、白いテーブルをはさんで向き合う。
リラックスした空気をつくろうと、まずは無難な世間話から切り出した。田村はなかなか会話に乗ってこない。「はあ」とか「そうですね」の二言しか口にしなかった。
頃合いを見計らって、今日はなんの相談かな、と水を向ける。
田村はうつむいたまま、答えようとしなかった。言おうか、黙っていようか、迷っているふうだ。
私は田村が口を開くのを辛抱強く待った。たっぷり一分ほど、田村は黙りこくっていたが、やおらおもてをあげ、ひとつ深呼吸すると冒頭のセリフを吐いたのである。
「先生、僕は世界を救うヒーローなんです」
と、いきなり。
唖然とする私を見て、田村の顔が見る見る赤くなっていった。
「信じてくれないでしょうけれど、ウソなんかじゃありません。僕はランギニアという異世界で魔王と戦って……」
ちょっと待て、と田村を制止する。すっかり興奮した田村は目をつりあげ、浅い呼吸を繰り返している。
おでこを右手の親指の腹で強くもむ。まさか、田村の口からこんな言葉を聞かされるとは思ってもいなかった。どうにか平静な表情をとりつくろい、あらためて田村と正対する。最大のハードルを越えた田村は、さきほどとはうってかわって饒舌になっていた。
「夏休みに入って最初の日曜日のことです。本屋から帰る途中で僕は偶然、ランギニアという異世界に迷いこみました。いえ、偶然なんかじゃありません。ランギニアにある人間の国、バスラ王国のフィリシア王女というひとが召喚魔法を使って、僕を呼び寄せたのです」
私の口はさっきから開きっぱなしだった。開いた口がふさがらない、とはまさしくこのことだろう。その意味を実感する。
「ランギニアでは人間と魔物が二千年にもわたって戦い続けています。過去には何度か、強力な魔王の出現で窮地に陥ったことがあったそうで、そのたびにヒーローやヒロインが現れて世界を救った、という伝説が残っています。百五十年前の危機のときは、魔法少女まじかるミーナというひとが魔王を倒して、人々を絶望の淵から救いました。彼女の圧倒的な強さは、まさに伝説の戦士そのものです」
あ、ちなみに「まじかる」はひらがなですからね、と田村がドヤ顔で付け加える。伝説の戦士って、プリキュアかよ! というツッコミはしないでおく。今年で五歳になる娘がプリキュアの大ファンで、エンディングのダンスを娘といっしょになっておどっているのは生徒に秘密だ。
「僕はフィリシア王女から魔王の打倒を依頼されました。召喚魔法に応じたぐらいだから、あなたにはそれだけの力がある、と。最初、僕は断りました。だって、そうですよね? 僕はなんの取柄もない、ごく普通の高校生です。剣だって、剣道の授業を少し受けたぐらいです。真剣なんか触ったこともありません。ですが、フィリシア王女は見かけによらず、やたらと積極的な性格で……」
田村はわざとらしく咳払いをする。耳まで真っ赤になった。そのフィリシア王女とやらの積極的な性格がどういうかたちで発揮されたのか、具体的なことは語ろうとしない。推測してほしい、ということなのか。……いや、やめておこう、教師にあるまじき妄想は。
無性にタバコが吸いたくなって、ふところをまさぐる。が、首から下げたロケットに指先が触れただけで、あいにくタバコは切らしていた。ここから飛びだしていきたい衝動をグッとこらえ、田村の語る冒険談に耳を傾ける。
田村は身振り手振りをまじえて、ランギニアでの活躍をまくしたてた。中二病が悪化したとしか思えない、ライトノベルばりのストーリーを要約すると次のとおりになる。
バスラ王国無双の剣士である女近衛隊長のターナ、百年にひとりの天才とうたわれた女魔術師のセレンという強力な仲間を得て、田村たちは反撃に転じる。魔王の軍団に占領されていた町を奪還し、行く手に立ちはだかる中ボス級の魔物を滅ぼして、ついに魔王の棲む〈影の魔宮〉へと突入した。魔王との死闘の末、田村たちはどうにか魔王の封印に成功する。
「ですが、封印が破られ、魔王が復活したらしいのです。あれほど厳重に封印したはずなのに……魔王の魔力は僕たちの想像を超えていました」
田村はギリッと歯を食いしばる。ズボンのポケットから親指の爪ぐらいの大きさの、丸い緑色の宝石を取りだし、右のてのひらの上で転がしてみせた。
「これはフィリシア王女からもらった魔法石です。この石を通じて、彼女がランギニアから呼びかけてきました。もう一度、戦ってほしい、と。僕は行かなければなりません。逃げるわけにはいかないんです。僕は世界を救うヒーローなんですから」
田村は私の反応を上目遣いでうかがう。私は二の句が継げない。無言で田村を見返す。私の表情からなにを読み取ったのか、田村は語気を強めて言った。
「今度は魔王を完全に滅ぼすまでランギニアにとどまるつもりです。魔法少女まじかるミーナというひとは、たったひと月で魔王を滅ぼしたそうですが……僕はそこまで強くないですから、最低でも一年はかかるでしょう」
一年もかかるだって? 思わず口をついて出た私の言葉に、田村は苦笑を浮かべる。
「大丈夫ですよ、先生。ランギニアとこの世界とでは時間の流れ方が違うんです。あちらの方が時間の流れは早いんですよ。差はだいたい十倍ぐらいでしょうか。ランギニアで十日間を過ごしても、こちらでは一日しか経過していません。僕がランギニアに一年いたとしても、この世界では一ヶ月ちょっとしか経っていない計算になります」
学校はどうするんだ、という私の問いに田村はバツの悪そうな顔をする。