【短編集】人魚の島
桜の樹の下で
わたしが通っている私立高校の敷地には、二百本近い桜の樹が正門から校舎まで行儀よく整列している。
春になると花を咲かせた桜並木のアーケードがとてもきれいで、入学式に臨む新入生は全員といっていいほど舞い散る桜の花びらをバックに記念撮影する。
数多い桜の樹のなかでも樹齢三百年になんなんとする巨木が講堂の裏手に鎮座ましましていて、あまり人目につかない位置にあることも手伝い、昔から絶好の告白スポットとなっている。なんでも、その桜の樹の下で片想いの相手に告白すると必ず相思相愛になれる──らしい。そんな伝説めいた噂が、学園のなかにはまことしやかに流布している。
眉唾ものの伝説を信じる気にはなれなかったが、まったく根拠がないと全否定する気持ちにもなれなかったのは、くだんの桜の樹の下で、同じクラスの佐々木君がしどろもどろになりながらも想いのたけをわたしに打ち明けてくれたからだ。
佐々木君の告白になにも感じるものがなかった、と言えば嘘になってしまう。けれども、返事は保留している。複雑な心境だ。
佐々木君の方は最初で最大のハードルを乗り越えたことでいくぶん気が楽になったらしく、わたしに気さくな笑顔を向けてくる。佐々木君といつもいっしょにいる数人の友人も彼と秘密を共有している。わたしを見る彼らのいわくありげな目つきでそれがわかる。
わたしの方はクラスに親しい女友達がいるわけでもなく、誰かに相談をもちかけたこともない。クラス委員長の女子生徒が教室のなかでは浮いた存在であるわたしになにくれと気を遣ってくれたりもするが、彼女でさえもわたしと友達になりたいとは望んでいないだろう。
放課後の教室でスクールバックに教科書やノートを黙々とつめこんでいると、わたしの名前を呼ぶ声がする。おもてをあげると、角張った顔立ちに神妙な表情をたたえた佐々木君がすぐ近くに立っていた。
わたしと目が合っただけで、佐々木君はたちまち赤面する。なんともわかりやすい反応だ。
「……あのこと、考えてくれたかな?」
佐々木君の態度は真剣そのものだ。だから、わたしもあだやおろそかに返事できない。彼をまっすぐに見据えたまま、結局、一昨日と同じセリフを口にする。
「ごめんなさい。もう少し考えさせて」
佐々木君は小さくうなずく。顔には出さないが、心中ではわたしのそっけない返答に落胆しているのかもしれない。つと目をそらして、自分の足元をじっと見つめている彼の挙措がわたしにそう思わせる。
「わかったよ。いい返事、待ってるから……」
佐々木君はおずおずとした笑みを浮かべると、きびすを返して離れていく。彼の背中を見送りながら、わたしは再三再四繰り返してきた自問をまたもや反芻する。
いったい、わたしはなにを悩んでいるのだろう、と。
そう、わたしは佐々木君とどう向き合えばいいのかわからず、このところずっと悩んでいる。迷うなんてわたしらしくないとつくづく思うけれど、意想外の告白から二日が経ったいまでも決心がつかず、逡巡(しゅんじゅん)している。うっかり「イエス」と答えようものなら、あとで彼を失望させかねない。だとしたら、きっぱり「ノー」と答えて、いますぐ彼を失望させた方がまだしも思いやりのある行為と言えるのだろうか? わたしには確信が持てない。
いつも思惟は出口の見えない堂々巡りに陥り、わたしは吐息をついて物思いにピリオドを打つ。なにを悩む必要があるというのだろう? 「イエス」であろうが「ノー」であろうが、そもそも返事をする資格すらわたしにはないというのに……。
これほどわたしを悩ませる問題も、安易で無難な解決方法がひとつだけある。返事は保留のままにしておいて、時間がすべてを解決してくれるのを辛抱強く待っていればいいのだ。
しかも、それほど時間がかからないはずであることをわたしは知っている……。
そんなとき、仕事が舞いこんできて、憂鬱な悩みごとからいっときわたしを解放してくれる。
村上君──わたしと同じ高校生の彼を探しだし、連れてくるのが今回の仕事だ。
さっそく、わたしは仕事にとりかかる。
仕事を始めて二日目。やっと村上君を見つけた。
村上君がいそうな場所をあちこち探しまわってもなかなか見つけることができなくて、いい加減うんざりしていたわたしはホッと安堵の息を洩らす。
私鉄沿線の住宅街にある県立高校──その敷地のかたすみに一本だけぽつねんと立つ桜の樹の下に村上君はいた。
桜の樹の下、というシチュエーションにわたしは奇妙な既視感(デジャ・ヴュ)を覚える。佐々木君の容姿が村上君のそれと重なり、わたしは思わずどきりとする。痩せぎすで細面(ほそおもて)の村上君と、がっちりとした身体つきで荒削りな面立ちの佐々木君とでは似ても似つかないはずなのに……。
春になれば、この桜の樹もたくさんの薄紅色の花で麗々しく着飾るのだろう。初夏のこの季節は、樹冠を縁取る葉むらの濃い緑がひときわ目にしみる。
村上君は節くれだった桜の樹の幹に手をつき、ぼんやりと頭上を見上げている。葉むらの隙間からこぼれ落ちてくる蜂蜜色の木洩れ日が、まるで遊び戯れる妖精たちのように彼の周囲で揺らめいている。
わたしが近づいても村上君はいっかな気づかない。あと数歩、という距離まで近寄ったところで、気配を察した彼が肩越しに振り返る。わたしを認めて、彼の眉尻が心持ちつりあがる。
学校は授業が終わったばかりで、下校する生徒の列が校舎の昇降口から校門まで続いている。体育会系の部活の声がグラウンドにかまびすしい。校舎の奥からブラスバンドのたどたどしい通奏低音が流れてくる。体育館へ向かう生徒の集団がときどき桜の樹のそばを通りすぎていくけれど、誰もこちらに注意を払おうとしない。
村上君はグラウンドを走りまわる運動部員に無感動な一瞥(いちべつ)を投げかけると、そのまま視点を横にすべらせ、わたしをうろんな目つきでながめる。わたしが微笑むと、彼はびっくりしてさかんに目をしばたたき、儀礼的で控え目な笑みを返す。そういう反応はどことなく佐々木君に似ている。
「きみが着ているその制服……この学校の生徒じゃないね。なんで他校の生徒がこんなところにいるんだい?」
と、村上君。話しかけるのも億劫(おっくう)そうな、のろのろとした口調で。
こんな質問は想定外だ。もっと別の言葉を予想していたのに。なので、答える代わりに、そっくりそのまま彼にお返しする。
「なんでだと思う? 当ててみてよ、村上君」
とたんに村上君が顔をこわばらせる。わたしの全身を頭のてっぺんから爪先まで粘着質な視線でつついて、いぶかしげに眉をひそめる。
「どうして僕の名前を知ってるんだ?」
「あなたのことを探してたのよ」
「僕を?」
「そう。ずっと探してたんだから」
「僕はきみのことなんか知らない。きみは誰? どこの学校の生徒?」
わたしは軽く肩をすくめる。村上君の質問はひとまず受け流して、今度はわたしが彼に問いかける。
「こんなところでなにをしてるの?」