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【短編集】人魚の島

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 涼子に声をかけたのは、大粒の雨が突然降りだしてきたのに、彼女が傘を持っていないみたいだったからだ。私が傘をさしかけると、涼子は丁重に礼を言い、にっこりと微笑んでくれた。あのときの涼子の笑顔を私は一生忘れない。
 そのあと、何回か公園で会ううちに、私のなかで涼子は特別な女性へと変化していく。
 心身がすり減るような無為の日々を送っていた私にとって、春のうららかな陽射しにも似た涼子の温かい笑顔は唯一の救いだった。涼子に私の愚痴を聞いてもらうときもあったが、たいていは彼女がしゃべって、私はもっぱら聞き役に徹した。話しているときの彼女はとても無邪気で、顔つきも底抜けに明るい。
 そんな涼子を見ているだけで、私の気分は昂揚した。あのとき、涼子と出会えていなかったら、私はいつまで経っても失意のどん底から抜けだせずにいただろう。

 涼子が私のことをどう思っていたのかはわからない。よく話し相手になってくれる失業中の男性、としか彼女の目に映っていなかったのではないだろうか。出会った当初は私を恋愛の対象とみなしていなかったはずだ。彼女の遠慮がちな物腰や仕草、堅苦しい会話の口吻(こうふん)からもそれはうかがえた。
 私のデートの誘いに応じてから、涼子の態度は徐々に軟化してきたように思う。なにげないきっかけからそれは始まった。
 涼子は絵を描くのが趣味だった。時間があれば、彼女はいつでもスケッチブックに絵筆を走らせていた。一時期は本気で美術大学への進学を目指していたらしい。家庭の経済的な事情で美術大学に進学することはかなわなかったが、そのあとも絵を描くことはやめなかった。
 私は絵のセンスなんかこれっぽっちもなかったけれど、涼子の描く絵はとても好きだった。なんと表現すればよいのだろうか、芸術的な才能に乏しい私には的確な評価が思いつかないが、涼子の絵には躍動感が満ちあふれている──柔らかな線描で構成されたひとや動物がじっと見つめているうちに質感を得て動きだしそうな、そういう印象を与える絵なのだ。
「近くの美術館で美術展を開催しているんです」
 涼子の方からそんな話題を振ってきたとき、私はそれに便乗する形で、
「じゃあ、ふたりで行ってみようよ」
 と、さりげなく誘ってみた。
 涼子はふっくらと微笑んで、拍子抜けするほどあっけなく承諾してくれた。
 初めてふたりで出かけた美術館のカフェテラスで交わした会話の断片は、私の最良の思い出となっている。あのときのキラキラと輝いていた涼子の表情──目をつぶると、まぶたの裏にその残像がいまでもくっきりと思い浮かぶ。私と話すときの彼女の口調が敬語主体のものから、もっと砕けた言葉へと移り変わっていったのはそれからだった。
 涼子が欠点のない理想的な女性だったかというと、正直なところ、必ずしもそうではなかったように思う。
 涼子はとても泣き虫だった。感受性が豊かな女性だから、映画を観て泣きだすのはしょっちゅうで、私が目をうるませもせず平然としていると、ムキになって怒りだした。うんざりさせられたのは、デートの待ち合わせに遅刻した涼子にそれとなく文句を言ったときの、彼女の反応だ。叱られた子供のように涙をポロポロとこぼして泣くので、私は無条件降伏せざるをえなかった。
 涼子には意外と嫉妬深い面もあって、彼女が店員として働いている花屋でほかの女性店員と軽くおしゃべりしただけなのに、その日は一日中不機嫌で、ろくすっぽ口をきいてくれなかった、なんてこともある。
 それでも、私の気持ちはまっすぐに涼子へと向かっていたのだ。
 私が涼子に抱く想いは、純粋な恋愛感情というよりも母親への思慕に似たものであったかもしれない。彼女と過ごしたあの日々を顧みると、いまはそのように感じる。
 当時の私はなかなか再就職が思うようにならないことで、誰かの慰めを、無条件の保護を、心のどこかで求めていたような気がする。自分の内奥に横たわる深い闇の底へ沈みこんでいこうとしていた私にひと筋の光明を示してくれた存在──それが、涼子だった。
 紆余曲折を経てようやく再就職が決まったとき、私が真っ先に報告したのは涼子だった。私の報告を聞いて、彼女は素直に喜ぶ。無職のままでは涼子と真剣に付き合えない、と一方的に思いこんでいた私は、やっと職にありつけたことよりも、彼女の自然な笑顔を見られたことの方が数倍うれしかった。
 私が思い切って涼子に自分の気持ちを告げた夜――金色と銀色の花火がすばらしくきれいだった、あの夏の日――彼女はおかしそうにひとしきり笑い、それから穏やかな口調で返事をした。「わたしもあなたのことが好きよ」と。二重、三重の花火の光に照らしだされた涼子の屈託のない笑顔に、私は救われた心持ちがした。
 それから一年近くが経って、私は涼子と婚約する。
 経済的にまだ苦しい状況が続いていた私はふたりの新居もエンゲージリングも用意できなかったけれど、私の不器用なプロボーズの言葉に涼子は真剣な面持ちで耳を傾けてくれた。そして、頬を涙で濡らしながら、彼女はこう言ったのだ。「はい」と、たったひと言だけ。私にとってはそれだけで充分だった。

 私は涼子といつまでもいっしょに暮らしていけると信じて疑っていなかった。そう思うのも当然だ。どうして、彼女に二度と会えなくなる日が来るかもしれないなんて、あのときの私に想像できたというのだろう?
 それなのに……涼子は、死んだ。私を置き去りにして。
 あの二年前の雨の日──会社にいた私に突然、かかってきた、涼子の父親からの電話。
 私の記憶はそこで途切れている。気がつくと、私は病院の霊安室にいた。病室じゃない。病室は生きている患者がいる場所だから。死者となった涼子の居場所は病院の半地下にある霊安室だった。
 交通事故……。
 涼子の両親が泣きながら、私にそう告げた。病院に運ばれてきたときにはもう手遅れだった、と。
 私は不思議と泣かなかった。自分でもうまく説明できないが、きっと彼女の死がにわかに信じられなかったのだと思う。こんなことは悪い冗談で、気がめいるようなこの長雨があがれば、涼子はいつもの笑顔で私を迎えてくれる――そう信じていた。いや、信じようとしていたのだ。
 実際は、そうじゃなかった。
「これをあなたに」と涼子の母親が私に渡した一冊のスケッチブック。交通事故に遭ったとき、彼女が持っていたものだった。
 泥に汚れたスケッチブックを開いて、私はそこに描きかけの絵を見つける。私の肖像画だった。結婚するまでに、という約束で描いていた絵。絵のなかで、私に向かって微笑みかける、私自身。その絵が永遠に完成しないことを私はそのとき思い知った。
 涼子は、死んだのだ。

 いま、私の心のなかにはかつて涼子がいた場所にぽっかりと空洞ができている。
 たぶん、この空洞が埋められることはこの先もないだろう。私が別の女性と巡り会い、もう一度恋をしたとしても、涼子の代わりにはなれない。
 世界中にどれだけの数の女性がいようとも、私にとって涼子は唯一無二の女性なのだ。
 その気持ちは、いまでも変わっていない……。

 部屋が暗くなってきたので、照明を点ける。
作品名:【短編集】人魚の島 作家名:那由他