【短編集】人魚の島
「なにも入っていなかったはずなのです。あの子のお葬式が終わったあとで遺品を整理したときはなんともありませんでしたから。それなのに、この前、掃除をしていて動かしたらなかから音がして……」
「知らないあいだになにかが入っていたということですか?」
「箱の開け方がわからなかったので、なにが入っているのかはわかりません。沖村さんなら開け方を知っていると思ったんです」
私は秘密箱を顔の高さまで持ちあげて、ためつすがめつ観察する。特に変わったところはなかった。蓋はピッタリと閉じていて、継ぎ目はわからなくなっている。
母親にこれが開けられないのだとしたら、父親にも無理だろう。じゃあ、誰が、いつ、なにをこの箱のなかに入れたのだろう? いや、待てよ……もしかしたら、なかにしまってあるものを固定していたテープがはがれてしまって、箱のなかを動くようになってしまっただけかもしれない。考えてみると、その可能性が一番高いような気がした。
開け方はあまり憶えていないが、何回か試行錯誤を繰り返せば開けられるはずだ。試してみようと思い、箱の側面に指をかけると、母親が短く声をあげて制止する。
「それは沖村さんに差しあげます。どうぞ、お持ち帰りになってください」
「でも、これは……」
「いいんです」
母親はわびしげに微笑んで頭(こうべ)を垂れる。伏せた顔から低い声が洩れてきた。
「沖村さんが持っていてください。なにが入っているのかはわかりませんが、娘が大切にしていたものに違いないのですから……」
自分のクルマに涼子の両親を乗せて、彼女の実家まで送っていった。多量のアルコールの効果で父親はとても上機嫌だ。ろれつがうまく回らないらしく、声が濁っている。父親を介抱しながら、「お休みのところ、すみませんでしたね」と母親は何度も繰り返す。私が「大丈夫ですから」と返事すると、母親はそのたびに軽く頭を下げた。
家の玄関の前で、別れ際に母親がそっと私に耳打ちする。
「沖村さんもそろそろ涼子のことは忘れて、すてきなひとを探してくださいね。その方が涼子も喜ぶと思うのです」
私はあいまいな微笑を浮かべただけで、なにも言わなかった。いいや、言えなかった、というのが正確な表現だろう。その可能性を口にするだけの勇気はまだ持てずにいた。
自分のマンションの部屋に帰り着いたのはだいぶ午後も遅くなってからだった。
窓から斜めに射しこんでくる西日がまぶしい。壁に飾られた水彩画の私自身がいつものように無言で出迎えてくれる。
「ただいま、涼子」
喪服を着替えて液晶テレビの前に置いた座イスに座り、紙袋から取りだした秘密箱をもう一度観察する。燃え立つような夕陽の朱金色の光に寄木細工の光沢がキラキラと反射して、とてもきれいだった。
このなかに入っているものに私はいたく興味を惹かれた。涼子が大切にしていたものはなんなのか? すぐには思いつかない。普通はふたりのあいだのきずなをもっともよく象徴するものが宝物として大事に扱われるのだろう。
たとえば、エンゲージリングとか。
しかし、中身がエンゲージリングであるはずはない。なぜなら、指輪のたぐいを涼子に贈ったことは一度もないからである。
とにかく、開けてみよう。涼子にとって宝物であるならば、私にとっても同じだけの価値があるはずだ。
ぼんやりとした記憶をほじくり返しながら、秘密箱の継ぎ目に爪をかけ、横に引いたり、縦に押したりして、力を加える。やってみると、思っていた以上に難儀な作業であることがわかった。蓋をずらすのはどうにかなるのだが、完全に外すのがなかなかできない。悪戦苦闘しているうちにイライラしてきた。
二十分以上もいじくりまわして、ようやく蓋が外れた。私は太い息をつく。赤銅色の円盤と化した太陽はいつの間にか向かいの学校の陰に隠れてしまい、室内は薄い闇がわだかまっている。
秘密箱のなかから出てきた品物は私のどの予想とも異なっていた。てのひらの上に転がりでてきたのは、親指の爪よりも少し大きい程度の、白っぽい色をした半透明の宝石だった。豆みたいな丸っこい形で、表面は磨いたようにツルツルしている。
私は目をパチクリさせる。こんな宝石を涼子に買ってやった憶えはない。涼子がこれを大切にしていた、という記憶もなかった。なにしろ、宝飾品にはほとんど興味を示さなかった女性なのだ。
宝石を指でつまんで、顔の前にかざす。これがどういう種類の宝石なのか、知識の乏しい私には皆目見当もつかない。ずっしりとした重量感や触れたときのひんやりとした感触からするとイミテーションではなさそうだが、さりとて、それほど高価なものだとも思えなかった。
……涼子が宝物にしていたものって、これだったのか?
微妙な失望感が私の胸中に沈殿していく。ふたりの思い出のよすがとなるようなものを勝手に想像していたのだが、意想外の品物が出てきたことでなんだか期待外れに感じていた。
それにしても……こいつは妙だ。
秘密箱の内側にはどこにもテープで止めたような痕跡がなかった。となると、テープで固定されていたものが箱のなかで動くようになったのだろう、という私の推測はまちがっていたことになる。涼子の母親は、お葬式が終わったあとで遺品を整理したとき、箱にはなにも入っていなかった、と証言していた。だとすると、そのあとで誰かがこの宝石を秘密箱のなかに入れたことになる。
誰がそんなことを?
まさか、涼子が……。いや、絶対にありえない。
涼子の動かなくなった冷たい身体を私はこの目で見ているのだ。
二年前の、あの陰鬱な雨の日に……。
涼子と出会った日のことはいまでも鮮明に憶えている。
あれはもう三年と半年ほど前になる。
当時、私は勤めていた会社を退職した直後で、毎日仕事を探して歩きまわっていた。何社も面接を受けたが、なかなか採用までには至らず、悶々とした気持ちを抱えたまま、その日その日を過ごしていた。
たまには近くの公園まで足を伸ばしてのんびりしよう、と思い立ったのは、いまから考えると多分に運命的な成分があったのかもしれない。普段の私なら天気が悪いのに公園へ行こうなどという気にはとうていなれなかったはずだからだ。
公園のベンチに腰かけ、噴水の周囲に群れるハトをぼんやりとながめていたら、雑木林を一周する遊歩道の奥から涼子が歩いてきて、隣のベンチに座った。
隣のベンチにいる女性を横目でさりげなく観察する。彼女の第一印象はそれほど強烈なものではなかった。どこにでもいる平凡な若い女性、というのがそのときの偽らざる印象だ。
肩から肩甲骨へかけて流れる栗毛色の髪と透けるような白皙(はくせき)の肌。ハッとするような美人ではないが、つぶらな黒い瞳と緩やかな起伏を描く鼻梁が特徴的な、日本人女性らしい面差し。どちらかといえば小柄で、身体つきもほっそりとしていた。
涼子はスケッチブックを広げて、熱心に絵筆を動かしていた。周囲の様相は目に入らないようで、私の存在に気づいた様子もない。
あのとき、雨が急に降ってこなければ、私と涼子はそのまま赤の他人で終わっていただろう。
そう、私と涼子の結びつきは、雨のなかで始まり、雨のなかで終わったのである。