【短編集】人魚の島
蛍光灯の淡白な光を吸収して、私の掌中の宝石が生まれたばかりの星のように輝く。じっと見つめていると、宝石のなかでなにかがキラリと光った。
私はハッとする。顔を近づけると、宝石のなかで影が動いていた。
影が輪郭と色彩を得て、たおやかな笑顔の女性となる。
あれは……涼子。涼子だ!
涼子が微笑んでいる。彼女の笑顔はあのときのままだ。
宝石の内側で小さな世界が急速に膨張していく。その世界には涼子だけではなく、私の微小な分身も存在していた。
涼子から手渡された絵を私がつくづくとながめている。あれは……壁に飾っている私の肖像画だ! 現実の世界では未完成だったのに、宝石のなかの小さな世界ではちゃんと完成していた。宝石のなかの私は莞爾(かんじ)と笑って絵を受け取り、感謝の言葉を口にする。涼子は満足そうな表情をしていた。私に抱きつき、楽しそうに話しかけている……。
光が流れて虹となり、景色を押し流していく……。
涼子がいるのはどこかの教会であるらしかった。真っ白なウェディングドレスに身を包んだ涼子が、私と腕を組んで階段を降りていく。とてもうれしそうな顔の彼女。階段の両側に居並ぶ知人からいっせいに祝福を受けるふたり……。
光が流れて虹となり、景色を押し流していく……。
今度は広くないけれど、きちんと整理整頓が行き届いた室内。調度品が白一色に統一されているのは潔癖症だった涼子の趣味なのかもしれない。料理の皿が並んだテーブルをはさんで座っている私と涼子がそこにいる。私も涼子も笑っている。なにひとつ欠けるところのない、ふたりだけの平穏な生活……。
光が流れて虹となり、景色を押し流していく……。
ふたりでよく散歩した、公園の雑木林をぬける遊歩道。まだら模様の木洩れ日を踏みしだいて、私と涼子が歩いている。涼子の手に引かれているのは小さな女の子。目元が涼子にそっくりだ。私と彼女の子供なのだろう。私に微笑みかける涼子。頬を緩める私……。
半透明の宝石のなかで、私と涼子の姿が走馬灯のようにめまぐるしく移り変わっていく。
そのどれもが幸せそうで……いつも涼子は私のそばにいてくれて……優しく微笑んでいる。
私は直感的に悟っていた。
これは涼子の夢だ。彼女の生命といっしょに喪われた夢。
そして、これは私の夢でもある。二年前のあの雨の日にすべてが壊れてしまった、私のはかない夢……。
涼子の砕け散った夢が二年の歳月をかけて結集し、秘密箱のなかで夢の結晶が人知れず成長していった──おそらく、それがことの真相なのだろう。涼子の大切なものをしまっておくはずだった秘密箱が、夢のかけらを呼び寄せたのか、それとも、彼女の夢の破片が秘密箱のなかに居場所を見つけたのか……。私にはどちらとも判断がつかなかった。
宝石がひとつの夢をつむぐたびに、金色の光の粒が飛びだしてくる。金色の光は空中に舞いあがると、星のようにまたたいて音もなく蒸散した。宝石が少しずつ小さくなっているのに私は気づいた。私が触れたことで、行き場を見失っていた涼子の夢が昇華したのかもしれない。
まるで暑い日の氷のように涼子の夢の結晶が溶けていく。夢が夢ではなく、現実となった世界の断面を私に見せつけて……。
最後の光の粒を放つと、宝石は跡形もなく消えてなくなった。金色の小さな光球が私の頭上をフラフラと漂う。それをつかもうとして私は手を伸ばし、指のあいだにからめとって……手を開くと、そこにはなにも残っていなかった。
気がつくと、私は泣いていた。
涙が止まらない。その涙は私の心のなかに空いた空洞を埋めるかのように、胸の奥底からしみだしてきた。
壁にかけられた絵のなかで永遠の微笑みを浮かべている私の分身が、心配そうにこちらをうかがっている。その温かいまなざしが、ささくれだった私の感情をなだめてくれた。手の甲で涙をぬぐい、未完成の私自身に向かって完璧な笑みを返す。
大丈夫だよ、涼子。きみがいなくなっても、私はなんとかやっている。
悲嘆、絶望、憤怒、後悔……そんな感情はもうとっくに体外へ排出してしまった。時間の流れというのはどんな傷でも癒してしまう特効薬だ。立ち直るだけの時間はたっぷりとある。
悲しいから、寂しいから、私は泣いているんじゃない。きみと夢を共有していたと知って、私は心底うれしかったのだ。
たとえ、いまは夢をなくしてしまったとしても、私は涼子と過ごしたあの日々をずっと忘れない。私は涼子の思い出を胸に、これからを生きていこう。
なぜなら、私は涼子を愛していたのだから……。