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【短編集】人魚の島

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蒼い涙、紅い夢


 私の部屋には額縁に入れて壁に飾った一枚の水彩画がある。
 泥で汚れ、絵具がにじんだその未完成の絵は私自身の肖像画だ。
 いまのマンションに引っ越す前に住んでいたアパートの一室を背景に、椅子に腰かけ、お腹のあたりで指を組んだ私が心持ち首をかしげて微笑んでいる。鏡で見慣れた左右反対の鏡像よりも絵のなかで微笑む自分の顔立ちの方が整っているように思えるのは、絵の作者のちょっとした願望が反映されているからかもしれない。
 この絵を描いたのは私の婚約者だった涼子だ。
 私が涼子を語るのに過去形を使うのはちゃんとした理由がある。
 涼子は二年前の交通事故で亡くなった。絵のなかの世界がそうであるように彼女の時間はそこで永遠に止まってしまったのだ。
 いま、私は喪服に袖をとおし、黒いネクタイをしめ、身支度を整えている。
 今日は涼子の三回忌の法事が行われる。これから法事の会場となっている葬祭式場へ向かうところだ。
 朝から天気がいい。よく晴れている。一週間前の週間予報では雨になる心配もしていたのだが、さっき聞いた予報だと本格的に降りだすのは明後日以降になりそうだ。
 私は自分自身の肖像画と向き合う。絵の向こう側から笑いかける線描の自分に向かって声をかけるのは、はたから見るとおかしな光景のように思われるだろうが、それでも私は口に出さずにはいられない。
「行ってくるよ、涼子」
 そして、私は部屋を出ていく。

 涼子の三回忌の法要は彼女の両親と少数の親戚だけでしめやかに営まれた。
 ちょうど一年前の一周忌のときも会っているので、挨拶すると先方の親戚は私のことを憶えていてくれていた。
 涼子のお墓は晩秋の紅葉に彩られた霊園のほぼ真ん中、オベリスクのように先端のとがった白い給水塔のそばにあった。赤御影のお墓と、同じ石材の墓碑銘が、冷たい風に舞い散る落ち葉のなかで蜂蜜色の陽射しを浴びている。
 私と男の親戚が手分けして、運んできた卒塔婆(そとば)をお墓の後ろに立てかける。涼子の母親とその妹──涼子の叔母──が真っ白な大輪の花を供えた。お坊さんが音吐朗々(おんとろうろう)と読経する。最初に涼子の両親が墓前に線香を置いた。父親に促されて、次に私が墓前に進む。線香をあげて、瞑目、合掌。
 墓碑銘に刻まれた涼子の「涼」の字をとった戒名の下には「俗名涼子 行年二十五才」の文字が続く。行年は数え年とするのが慣習だ。涼子が不帰の客となったとき、彼女はもうすぐ二十四歳の誕生日を迎えるところだった。
 以前は涼子の墓前に立つたびに叫びだしたい衝動に駆られたが、いまは平静な気持ちで故人の冥福を祈ることができる。涼子を喪ったという現実をようやく正面から受け止められるようになったのは、彼女がいなくなって一年も経ってからだった。
 私は祈りの言葉とともに、涼子への感謝をそっとつぶやく。
 たくさんの夢をありがとう、と……。

 法事のあと、霊園の近くの割烹店で参列者の会食の席が設けられた。
 顔はわかるけれど名前が思い浮かばない親戚からビールを勧められるたびに「クルマですから」と丁重に断って、代わりにウーロン茶をコップに注いでもらう。なかなかの酒豪である涼子の父親は料理にほとんど手をつけず、さっきから手酌でビールをあおっている。私がビールのビンを持ちあげると、父親はほんのりと赤くなった頬を緩め、コップを突きだす。コップになみなみと注がれたビールを父親は一気に半分ほど飲み下した。
「沖村さん、最近、仕事の方は忙しいのかい?」
 父親がウーロン茶のビンを私に向かって差しだす。私はコップに残っていた分を飲み干すと、父親に半分ほど注いでもらった。
「これから忙しくなりそうです。来月、大阪支店の方へ転勤することになりました」
 私の言葉を聞いた父親が半白の眉をあげた。
「そうか、大阪にね……。すると、東京へはなかなか帰ってこられなくなるな」
「仕事が忙しくなかったら月に二度までは会社の負担で東京へ帰れますから。東京には私の両親もいますし」
「単身赴任かい?」
 そう尋ねてから、それが無用の質問だったことに気づいたらしい。父親はバツが悪そうな顔をする。私はテーブルの上からまだ中身が残っているビールのビンを探し当てると、無言で父親のコップに注ぎ足した。父親はなにも言わずにコップを傾け、喉を鳴らす。
「そうですね。当分のあいだは単身赴任になりそうです」
「涼子があんなことになっていなければ……」
 父親は苦々しそうに小声で言った。料理の皿が並ぶテーブルに目線を落とし、きつく唇をかみしめている。
 私はなんと言葉を返したらいいのか、とっさに思いつかず、口をつぐんでいた。
 涼子があんなことになっていなければ、私も単身赴任ではなく、夫婦で大阪に引っ越していただろう。もしかしたら、子供だっていたかもしれない。涼子の両親に孫の顔を見せてあげることができないのが残念でならなかった。
「沖村さん」
 私の右横に座っている涼子の母親が控え目な声で呼ぶ。そちらへ顔を向けると、最近はめっきりと白髪の増えてきた母親が柔和な笑みをたたえて上目遣いに見ていた。
「大阪へ転勤されるんですか?」
「ええ、まあ……。辞令はまだ正式にもらっていませんが」
「単身赴任だなんて、たいへんですね」
「すぐに慣れますよ。学生のときもひとりで暮らしていましたから」
 母親は一瞬ためらうような表情を見せたあと、声の調子を変えて言った。
「沖村さんにお渡ししたいものがあるんです」
「私に?」
 母親はバッグのなかをまさぐって、小さな薄茶色の紙袋を取りだした。黙ってそれを私の手に押しつける。
 私は意味がわからず、紙袋と母親の顔とのあいだで視線を往復させる。母親は目顔で、開けてみてください、と私に伝えた。
 母親の神妙な顔つきに問い返すこともできず、受け取った紙袋の口を開き、なかをのぞく。なかにあったのはてのひらに載るぐらいの大きさの木箱だった。だが、ただの木箱ではない。市松模様の寄木細工で飾られたそれに見覚えがあった。涼子とふたりで箱根へ小旅行に行ったとき、彼女に買ってあげた秘密箱──決まった手順を踏まないと蓋が開かない仕組みになっている工芸品だ。
 私が目で問うと、母親の顔がにわかに曇った。
「涼子の部屋にあったものです。あの子は自分の大切なものをしまっておくための箱だと言っていました」
 これを買ったときのことはよく憶えている。涼子と婚約を交わしたあと、独身時代の最後の思い出に、と出かけた箱根の土産物屋の店頭でこれを見つけた。木目が美しい表面の寄木細工と、どことなく謎めいた雰囲気を発散するこの小さな箱が、涼子はことのほかお気に入りだった。涼子には珍しく「わたしに買って」とおねだりしてきたぐらいである。
「いいけど、買ったらこれになにをしまっておくの?」
 と私が訊いたら、あのとき、涼子はいたずらっぽく笑って、こう答えた。
「わたしの大事なもの。わたしの一生の宝物よ……」
 私は紙袋から秘密箱を取りだした。振ると、カタカタとなかで音がする。なにか硬いものが入っているようだ。
「なにが入っているんですか?」
「わかりません」
 母親は首を横に振る。小さく吐息をついて、
作品名:【短編集】人魚の島 作家名:那由他