【短編集】人魚の島
カプセルのなかにもぐりこみ、気をつけの姿勢で仰向けに横たわる。花純が再びパネルを操作した。ゆっくりとカバーが閉じられる。ちょうど顔のあたりに外の見える四角い窓が切ってあって、花純が上からのぞきこんでいた。
「どう、気分は? 苦しくない?」
「平気だよ。気分は上々だ。おまえのナノマシンのおかげだな」
俺の皮肉は花純につうじなかった。額面どおりに受け取った花純が顔をほころばせる。
「じゃあ、いまから転送するね。あ、それからひとついい忘れていたけど……」
不吉な予感がした。それが表情に出たのだろう、花純はなんでもないといいたげに小さく首を横に振って、
「お兄ちゃんの頭にある黄緑色のお皿、ナノマシン本体でできているわけじゃないから、転送しても消えないの。だからね、どうせなら色をピンクにしてみたらどうかなって思ったんだけど……」
「やめ……」
密閉された窮屈な空間にいることも忘れて、反射的にガバッと身を起こした。おでこをしたたか窓にぶつける。激痛で一瞬気が遠くなった。
そのショックがもとで、ナノマシンが最後の力を振りしぼったのかもしれない。ごくごく小さな「ポン!」という音がして、俺の頭頂部になにかが出現した。
瞬間物質転送機が、獰猛な肉食獣のうなり声にも似た作動音を吐き散らす。
その音がどんどん大きくなって……俺の意識をムチャクチャにかき乱し……俺の身体はいずことも知れないデータの海へと吸いこまれていった。
かすかに吐き気がする。めまいもひどい。まるで船に乗っているかのように、涙でかすんだ視界がフラフラと左右に揺れている。
額に鈍い痛みを感じた。マラソンを完走した直後みたいに全身がひどくだるい。
なにかが……おかしい。
なんだろう、自分が自分でないような、現実が現実でないような、このいわくいいがたい違和感の正体は……?
「転送が終了したよ!」
花純の甲高い声が俺の鼓膜に突き刺さる。圧搾空気の洩れる音が聞こえた。カプセルのカバーが開く。
満面に笑みをたたえた花純が俺を真上から見下ろし──瞬時に凍りついた。
「お、お兄ちゃん……その身体は……」
めまいがおさまるのを待ってカプセルの縁を両手でつかみ、上半身を起こした。指がうまく動かない。どうしてだろうと思い、自分の右手を見た。
俺は唖然とする。
手の甲は真っ赤に染まっていた。いや、手だけじゃない。シャツの袖をまくると、腕も鮮やかな朱色に塗りつぶされている。
顔を仰向ける。中途半端な笑顔のまま凝固している花純の視線と正面衝突した。
俺と花純は無言で見つめあった。どちらも言葉が出てこない。
なんだか、酸っぱい匂いがする。腕を持ちあげ、手の匂いをかいだ。この匂いは……まさか、ベニショウガか?
「お、おい……」
俺はゴクリと唾を呑みこむ。唾さえもベニショウガの味がした。
ようやく呪縛の解けた花純が、震える手を伸ばして俺の頭から髪の毛を一本、引き抜く。髪の毛にしてはやたらと太かった。おまけに色は半分透きとおった赤。太さはちょうど細切りのベニショウガと同じぐらい。
花純が俺の髪の毛を口に含む。しっかりとした歯応えを感じさせる、ポリポリという小気味よい音がした。
「……やだ、おいしい」
「こだわりの厳選素材でつくったベニショウガだからな」
俺は虚ろな笑い声をあげる。試しに自分の指をなめると、辛味のきいたベニショウガの香味が口中に広がる。
「そうか。転送直前に出現したのはベニショウガだったんだ。焼きそばパンを丸ごと出現させるには材料が足りなかったようだな」
「不純物といっしょに転送されちゃったんだね。こんな事態は想定外だったよ」
「俺の身体とベニショウガが融合した、というわけか」
「えーと、つまり、お兄ちゃんは怪奇ベニショウガ人間になっちゃったということ?」
「そのようだな。信じたくはないが」
「でも、おいしいよ? このベニショウガ」
俺がにらむと、花純は首をすくめた。なんとか笑ってごまかそうとするが、そんなことでだまされる俺じゃない。
「いますぐなんとかしろ」
「なんとかっていわれても……」
「おまえ、ベニショウガの賞味期限はどのぐらいだと思う? 賞味期限が切れたら、俺の身体はどうなるんだ?」
「どうなるんだろ? 興味があるな、それ」
再びにらみつけると、花純は泣きそうな顔になった。
「……ごめんなさい、お兄ちゃん」
「ごめんで済めば警察はいらないって格言を知らんのか? 早く俺をもとに戻せ」
「あの……ひとつだけ、もとに戻す方法があるにはあるんだけど……たぶん、お兄ちゃんは気に入らないと思う」
「怪奇ベニショウガ人間でいるよりも気に入らない状況があるとは思えないな。いいから、いってみろよ」
「もう一回、瞬間物質転送機を使うの。前にお兄ちゃんの体細胞のサンプルを採取したでしょ? そのサンプルから抽出した遺伝子のデータを転送と同時に流しこめば、お兄ちゃんを普通の人間に戻すことができるはずだよ」
「ほー、その方法のどこが俺の気に入らない部分なんだ? 問題なんてなさそうじゃないか」
「その……ちょっとお兄ちゃんの遺伝子をいじっちゃったから、完全なオリジナルじゃないの」
「……頼むから俺にもわかるように説明してくれ」
俺の遺伝子のどこをいじったのか、花純が小さな声でポツポツと語る。聴いているうちに顔面から血の気が失われていくのが自覚できた。
「ちょっと待て。俺のオリジナルの遺伝子は保存していないのか?」
「いらないと思ったから廃棄しちゃったよ」
頭がクラクラする。こめかみを右手の指の腹でもむと、ベニショウガの酸っぱい匂いが嗅覚を刺激した。
思わずため息が洩れる。花純の提案は、怪奇ベニショウガ人間のままでいるよりはずっとマシだ。それはわかっているのだが……ものすごく抵抗はある。こいつを認めてしまったら最後、俺の人格がガラガラと音をたてて崩壊するのではないかと思われた。
花純が心配そうな顔で俺を見ている。花純なりに罪悪感を覚えているのだろうが、俺を見守る眼差しの一部になにかを期待するような成分を感じてしまうのは、はたして錯覚なのだろうか?
頭をかきむしりたい衝動が胸の奥から突きあげてきたが、髪の毛がベニショウガとなっていることを思い起こし、すんでのところで手を止めた。
……なにを犠牲にするにしても、やっぱり怪奇ベニショウガ人間ではいられない。
今日だけで何度目になるのかもわからない決断を俺はくだした。
「わかったよ。やってくれ……」
登校した俺を目にして、栗山がぽかんと口を開ける。
栗山だけじゃない。教室にいるクラスの全員があっけにとられていた。
まあ、無理もない。俺だって鏡を見たときは同じ反応をしたんだから。
俺は肩にかかる髪を後ろに払いのけた。花純が使っているのと同じシャンプーの香りがふんわりと広がる。
栗山はまだ俺を見つめている。俺は机に頬杖をつき、目を細めて栗山を見つめ返す。
「なにかいいたそうだな、栗山?」
栗山の口がようやく閉じた。梅干しのタネみたいな喉仏がヒクヒクと動く。俺は無意識のうちに喉をさすった。いまの俺は、昨日までの俺ほど喉仏が目立たない。
「……い、石塚なのか?」
「ああ」