【短編集】人魚の島
まだ食べ終わってもいない特盛り焼きそばパン(こだわりの厳選素材でつくったベニショウガ入り)の完璧なコピーが俺の手のなかにあった。しかも、ちゃんと袋に入っている。袋の表面に印字された賞味期限や裏側のバーコードまで本物そっくりに再現されているのだから恐れ入る。
半開きになったまま固まっている栗山の口のなかに焼きそばパンを袋ごとねじこんだ。さっきとは違う種類の涙が栗山の目尻からあふれだす。ほかにもいろんな汁がいろんな穴から流れだしてきたが、かまうことはない。花純の手料理を味わえるんだ。ヤツも本望だろう。まあ、焼きそばパンを手料理と呼ぶのはちょっと違う気もするが。
栗山の右手ににぎられた箸がこぼれ落ちたところでヤツの口に焼きそばパンを押しこむのをやめた。席から立ちあがり、栗山の肩に手を置いて、俺はニヒルに告げる。
「急用ができた。早退するから担任にはそう言っておいてくれ」
涙でにじんだ栗山の両眼がいぶかしげな色をたたえる。口のなかの異物がなければ「どこへ行くんだ?」と訊きたかったのに違いない。俺は唇の端を歪めて笑う。
「特科技中へ行ってくる。妹の宿題を手伝ってやらなくちゃならないんでな」
マフラーをターバンのように頭に巻いて、頭頂部のカッパの皿もどきを隠す。
どうやら感情のたかぶりとナノマシンの活動とのあいだにはなにかしらの相関関係があるようだが、自分の意志で食べ物の出現をコントロールすることができるのかどうかは不明だ。いきなり頭の上にカレーやら焼きそばパンやらが出現したらどうしようかと気をもんだが、必死にチャリをこいで花純の学校へ向かっている途中は、幸いにしてなにごとも起きなかった。
田畑をつらぬく二車線の国道を走り、やたらと幅の広い踏切を越え、駅前の商店街を抜けていく。市役所に隣接した、緑の多い敷地に整然と並ぶクリーム色の建物の群れ──チャリを停め、目の前にそびえる無骨な三階建ての校舎を見上げる。
ここが特科技中──未来のマッド・サイエンティストたちを集めた学校だ。
学校のなかに入ろうとしたら警備員に制止された。ヒグマかとみまがうような体格の大男が胸に太い腕を組んで俺の行く手に立ちふさがる。見かけは普通の男子高校生だが、首ではなく頭にマフラーを巻きつけているのがなんとも怪しい──たぶん、そう思われたのだろう。まあ、当然の反応だな。俺だって同意見だ。
この学校の生徒である石塚花純の兄だと説明し、写真つきの生徒手帳も見せたのだが警備員はなかなか信用してくれない。
「花純に連絡してくれ」
「ダメだ、帰れ!」
そんな押し問答を続けること数分。
警備員のヒゲ面が真っ赤になり、ヒグマと大差なさそうなヤツの忍耐力もそろそろ限界かと思われたころ、耳になじんだ柔らかい声が上から降ってきた。振り仰ぐと、三階の窓から白衣姿の花純がさかんに手を振っている。
「そんなところでなにをしてるの、お兄ちゃん?」
俺は頭に巻いたマフラーをほどき、つむじの代わりに頭頂部を覆った黄緑色の被膜を寒気にさらした。警備員の目が丸くなる。てっきり「なんだ、それは?」と詰問されるのかと思いきや、ヤツは腹を抱えて大笑いしやがった。俺は歯ぎしりする。
「お兄ちゃん、その頭!」
一方、花純の声は純粋な歓喜に充ち満ちていた。
「実験は成功したんだね!」
「成功したよ。よかったな」
そっけない俺の態度に気づいた花純が困惑げに目をしばたたく。きょとんとする花純に向かって、俺はことさらぶっきらぼうな口調で、
「おまえに頼みがあるんだが」
「ちょっと待って。いま下に降りていくから!」
花純のツインテールの頭が窓からひっこんだ。
俺はむっつりと押し黙ったまま、チャリを押して校門をくぐり抜けた。
警備員はまだ笑っている。マフラーでヤツの首をしめてやりたい衝動に駆られたが、それをガマンするだけの自制心はまだ残っていた。
まあ、仮に俺が自制心を失ったとしても、致命的なダメージを被るのはヤツではなく、たぶん俺の方だろうけどな……。
花純は自分専用の研究室(ラボ)に俺を案内してくれた。
学校の教室とほぼ同じぐらいの広さがある部屋だ。壁を埋めつくす用途不明の機械、鼻の奥がツンとする薬品の刺激臭、床をのたくるカラフルなコードの束、ありとあらゆる種類の測定機に筐体(きょうたい)が透明なスケルトン仕様の自作とおぼしきパソコン。
パッと見ただけで、そんじょそこらの研究機関よりも格段に設備が充実していることは素人の俺にでもわかる。普通の学校のような授業はあまりなく、特科技中の生徒は個人に割り当てられたこのようなラボで毎日、研究に没頭するのだ。無機質で殺伐とした雰囲気ながらも、ところどころに動物のぬいぐるみが配され、窓から射しこむ陽射しを浴びて気持ちよさそうにひなたぼっこしているあたりはなんとも女の子の部屋らしい。
部屋の真ん中に見覚えのある銀色の機械が横たわっていた。俺の背丈よりもわずかに大きい円筒形のカプセルがふたつ、二メートルほどの距離を置いて並んでいる。瞬間物質転送機だ。俺はあれであやうく怪奇ハエ男になるところだった。
まっさらの白衣に身を包み、いかにも科学者然とした花純は、目を輝かせて俺の頭頂部をつぶさに観察している。実験が成功してとてもうれしいのだろう。俺も「おめでとう」と祝ってやりたい気持ちはあるのだが、その前にどうしてもいっておかなければならないことがある。
花純が口を開きかけだが、俺は目顔でそれを制した。
「最初にいっておく。おまえのナノマシンは完璧だった。朝食べたカレーも、昼に食べた焼きそばパンもちゃんと再現されたよ。ここに、な」
頭のてっぺんにあるカッパの皿もどきを右手の人差指でつつく。
「あたしがつくったんだもん。成功して当然よ!」
花純は得意げに胸を張る。白衣を着ているとなおさら胸の起伏が目立たないのが返す返すも残念だ。
「味も問題なかったでしょ?」
「問題なかった。問題なかったが……こいつはダメだ」
「へ? なんで?」
不思議そうな顔をする花純の、淡いコハク色の瞳を俺は正面からのぞきこんだ。
「頭の上に食べ物が出現するようにしたのはなぜだ?」
「なぜって……お腹とかお尻に食べ物が出現したらたいへんなことになるよ? 帽子をかぶったりしなければ、頭の上はいつだってスペースがあいてるじゃない。満員電車に乗っていたとしても、頭の上だけはなんにもないしね」
「なるほどな。おまえなりに考えたわけだ」
「そうだよ。出現した食べ物が落ちたりしないための対策もばっちりなんだから!」
「そいつはこのカッパの皿みたいなやつのことをいってるのか?」
「うん。ナイスアイディアでしょ?」
「校門にいた警備員の感想は違ったようだな。俺を見て大笑いしてたような気がするが?」
「うーん、確かに見栄えはあまりよくないかもしれないけど……なんだかフランシスコ・ザビエルさんみたいだし。色が悪いのかな? 黄緑色じゃなくて、ピンクとかどう?」
「……寝てるときに食べ物が出現したらどうするんだ?」