短編集42(過去作品)
思わず声を出してしまった。しかし息を呑むような声だったので、マスターにも彼女にも分からなかったようだ。マスターは相変わらずグラスを拭いているし、彼女は少し俯き加減でコーヒーカップに口をつけていた。両手をカップに持っていって、実に上品な飲み方である。
――理沙子――
見覚えのある顔だ。忘れることなどできるはずもない顔。横顔だけでは分からなかったかも知れないが、コーヒーを飲んでいる仕草は信夫の知っている理沙子以外の何者でもない。
彼女はまだ気付かずにコーヒーを飲んでいる。何かを考えているというよりも、思い出に浸っているような感じの時の仕草であった。そんな時理沙子は、まわりが見えていなかった。
理沙子と知り合ったのは、大学時代。あれはまだ未成年の頃だっただろう。ちょうど付き合っていた女性に振られて、少し落ち込んでいる時だった。
元々、すぐ人を好きになるタイプの信夫だったが、相手が好きになってくれなくて片想いで終わってしまえば、それほどショックは残らない。しかし、少しでも自分に興味を持ってくれた女性と別れることになった時は結構尾を引いた。その時も付き合って半年だった女性と別れる結果となったことで、かなりのショックを受けていた。それまで付き合った女性の中で期間的にも一番長かったし、何よりも初めての相手だったことが、一番わだかまりとして残っていた。
初めての時に感じたのは、
――この人は自分を愛してくれているんだ――
ということだった。恥ずかしがり屋の女性だったが、どんなに恥ずかしいことでも、
「信夫が望むなら……」
この言葉が信夫を刺激し、有頂天にもさせたのだ。
――決してこの人と別れるようなことはないんだ――
「決して」などという言葉が簡単に考えてはいけないと思うが、その時の信夫は信じて疑わなかった。それだけに別れることになった時のわだかまりはすごいもので、一時期女性不信、いや、人間不信にまで陥っていたくらいだ。
心の中に、もしトラウマなるものが存在しているとすれば、その時のことがかなり影響しているに違いない。
信夫には大学を卒業してから付き合っている女性がいた。卒業する前に理沙子とは別れていて、わだかまりなどないつもりでいたのだ。
卒業すると、理沙子もファミリーレストランでアルバイトをする傍ら、得意だった英会話を生かした仕事もしていたらしく、それなりに多忙だったようだ。信夫自身も、就職してしばらくは、忙しくてそれどころではなかったが、仕事をある程度覚えてくると、まわりを見渡して、その時に目に付いた女性と付き合うようになっていた。
素敵な女性であることには間違いなく、家庭的にも厳格な親に育てられたようで、「お嬢様」という雰囲気を漂わせていた。もちろん、本人の意識するところではないのだろうが、雰囲気は十分に醸し出している。
それまで、自分のまわりにはいないタイプの女性で、自分の感情をあまり表に出すことがなかった。きっと、育ってきた環境が感情を表に出すことを許さなかったのだろう。
名前を皐月といい、いかにもお嬢様っぽい名前である。彼女は同期入社の会社の同僚である。短大出身なので、年齢的には信夫の方が少し上だ。
だが、皐月自身を普通に表から見ている分には、お嬢様という感じがしない。仲良くなっていくうちに醸し出されるもので、同じ職場の者で、皐月のお嬢様っぽいところを知っている人がどれだけいるだろう。
付き合っていて、まわりはお似合いのカップルに見えたようだ。信夫も皐月も付き合いを隠すようなことはしていなかったし、お互いにオープンな付き合いだった。
デートも映画に行ったり、遊園地に行ったりと、子供っぽいところもあれば、夕食はホテルのレストランでのディナーなど、お嬢様的な雰囲気を味わうこともできた。
だが、どこかが物足りないのだ。
その物足りないという感情の中に、理沙子の思い出があることは分かっていたように思う。理沙子という女性が皐月の後ろで見え隠れしているように思えてならなくなった時には、皐月も信夫の微妙な変化に気付いていたのかも知れない。
「あなた、誰か他に好きな人でもいるの?」
「いや、いないよ」
ドキッとしたが、心当たりがないわけではない。元々、感情が顔に出やすい方なので、きっと悟られていたに違いない。耳たぶがカッと熱くなって、顔も真っ赤になっていたことだろう。
付き合い始めて、数ヶ月で、すでにそんな感じだった。
皐月との初めての夜に、きっとそのことに気付いたように思うが、何と皮肉なことなのだろう。いや、無意識に理沙子の身体と思い出していたのかも知れない。もしそうだとすれば、皐月には悪いことをした。自業自得というものだ。
だが、初めてだと思っていた皐月は処女ではなかった。深く追求はしなかったが、触れてはいけないことだろう。信夫の方から触れるのはアンフェアーだ。
皐月と付き合っている時、理沙子のことは忘れているつもりだったが、ある時、夢に見た。喫茶店のカウンターに座っているのだが、信夫が入っても彼女は最初、気付かなかった。そう、今ここで出会っているのと同じシチュエーションだ。
それをなぜ覚えているかというと、その夢を見た翌日、理沙子と偶然再会したからだ。再会の場面は夢とは違っていたが、まだ皐月と付き合っている時だったのは間違いない。自分でもビックリだった。
駅前で再会したが、行ったことのない喫茶店に寄ったのは、これからどうなるか分からないということで、誰にも見られたくないためだった。下心が最初からあったということである。
他の人と付き合っていると、以前に付き合っていた人が綺麗に見えるものである。女性を魚に例えるのはどうかと思うが、
――逃がした魚は大きい――
ということだろう。
だが、実際に話をしてみると大人の色香を感じた。確かに皐月に子供っぽいところがあって物足りなさを感じていたからだろうが、自分の中で再度見えない火がついたような気がして、胸を打つものがあった。
――大人の色香――
それは恥じらいにあったように思う。久しぶりに会った理沙子は、自分と話している間俯いていることが多かった。こちらがそれとなく誘ってみると、ほんのりと頬を染め、恥じらいを見せる。嫌が上にも、気持ちが盛り上がってくる。
女性はおだてに弱いものだということを思い出し、おだての言葉を口にしてみた。
「綺麗になったね」
などと、口説きに掛かると、さらに理沙子は頬を赤らめ、今度は耳たぶまで真っ赤に見えてくる。お互いに知らない身体ではないはずなのに、このシチュエーションは男としての興奮を掻き立てられるものだった。
――彼女は私を求めている――
そう感じて疑わなくなると、今度は押しの一手だった。
「行こうか」
腰を抱くようにして喫茶店を出ると、すでに夜の帳の下りている街へと歩き始めた。ネオンサインのひときわ明るい一帯を目指しても、理沙子は拒絶しない。まるで処女のように身体を硬くしてはいるが、緊張から来るものだけでしかないようだった。
そんな時は強く抱きしめてあげるのが男の優しさというものだろう。強さなのかも知れない。少しの間、ナイトになったような気分だった。
作品名:短編集42(過去作品) 作家名:森本晃次