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繋ぐべきもの

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 だが、二人のハーフマラソンでの持ちタイムには少し差がある、山を下り終えて平地に入った残り三キロ地点から湘南学院は徐々に引き離され始める、必死で食い下がったが小田原中継所で三十秒ほどの差をつけられてしまった。
 そして七区、順位は変わらず三位をキープしたが、四位から七位の集団にだいぶ差を詰められた。
(大丈夫、落ち着いて行け、落ち着いて……)
 明彦は正直、気が気でない、ここまでが出来過ぎと言えば確かにそうだ、実況のアナウンサーや解説者までが『やはり後続集団に飲み込まれるだろう』と言うニュアンスで喋っている。
 だが、八区、平塚~戸塚間は湘南学院にとって地元、例年声援は多い。
 まして大健闘を見せているのだ、例年にも増して地元の声援が選手を後押ししてくれるはず……八区は自分が走った区間だ、明彦はそれを身をもって知っているのだが……。
(大丈夫か?)
 嫌な予感がした。
 八区の選手は少し気負っているように見えたのだ。
 沿道の声援は確かに力になる、だが、声援だけでなく後ろから追って来る集団の足音にも背中を押されているようだ。
 監督もかなりがなりたてている、普段はそれほど大きな声は出さないのだが、やはりオーバーペースを懸念しているのだろう。
 すぐ後ろにつけた伴走車からスピーカーを使っての指示、聞こえていないはずはないし、監督の哲学も身にしみているはず、それでも行ってしまうと言うことは本人にはオーバーペースだと言う意識がないのだろう。
 しかも八区の前半は海沿いのコースを走る、前を行く二位の選手の姿も、後ろから迫ってくる集団の姿も見通せる、そしておそらくは調子が良いと言う実感があり、二位を捉えられると言う自負もあるのだろう。
 調べてみると、八区のランナーは四年生で去年まではメンバーに選ばれていない、最初で最後の箱根駅伝だと言う気負いがあることも想像できる。
 同じように四年生の一度だけ箱根を走った明彦にはその気持ちは痛いほどわかった。
 自分の時は前がある程度離れていて、持ちタイムが拮抗している八位から十一位の四人の集団の中で走ることができたのでペースを乱さずに済み、残り三キロくらいのところで集団がどうばらけて行くのか、それを待って仕掛けようと冷静に考えることができた。
 だが、今年の八区はそうではない、前を行く選手は一人旅、見通しの良い直線ならばどうしたって追いたくなる、そして後ろからは大きな集団が迫っている、そこに吸収されてしまえば大きく順位を下げてしまいかねないのだ。
 冷静に考えれば一旦集団に飲み込まれて体力を温存し、機を見てスパートをかけて行くのが得策だが……。
 そして、調子が良いと感じた時に落とし穴が潜んでいることもままある。
 ついペースを上げすぎてしまい、後半急激にスタミナを失うことがあるのだ。
(頼む、冷静になってくれ……)
 そう願っていたが、落とし穴は口を開けて彼を待っていた。
 湘南新道から国道一号に入ったあたりからペースが落ち始めて後続集団に飲み込まれるとしばらくは集団の中で粘っていたが、原宿交差点を過ぎた残り三キロ付近で目に見えてペースが落ちてしまった、なんとか粘ろうとするが、残り三キロとなってスパートにかかった集団から見る見るうちに取り残されてしまった……いわゆる『ブレーキ』だ。
 苦悶の表情で集団を追おうとするが、腰が落ちてしまいストライドが伸びない。
 明彦もハーフマラソンでこうなった経験がある、こうなるといくら踏ん張ろうとしてもスピードは上がらない、もがけばもがくほど体力も消耗して行く、そこまで十八キロを踏破してきたのに残りの三キロがとてつもなく長い距離に思える。
 その時、初めての棄権をした……長距離走での最低限の目標は完走すること、棄権は恥ずべきことだと自分に言い聞かせて粘ったが、どうにも脚が前に出てくれずに心が折れてしまったのだ。
 だが、個人のレースと違ってこれは駅伝だ。
 駅伝特有の襷は、しばしば『前を走った仲間の汗が染み込んでいる』と表現されるが、そんなに軽いものではない。
 駅伝部員全員がこの襷を肩にかけることを目標に、一年間厳しい練習に耐えて来た、その汗を集めればどれほどの量になるのか……それをすべて吸い込んだ襷なのだ。
 八区を走る選手はまるで目に見えないロープを手繰ろうとするかのように体の前で腕を振る。
本当に藁一本でもそこにあるならすがって手繰り寄せたいくらいの気持ちなのだろう。いつもならば自分の体を前へ前へと進めてくれる脚がいまや重荷のように感じられるのだろう。
もし猛獣に追われているとしても脚を前へ出せない、それほどの消耗なのだろう。
 だが、彼はもがくようにして戸塚中継点を目指して進む、進まない体を気持ちで引っ張って進む、気持ちが折れてしまったらもう進めない、今、彼の気持ちを支えているのは彼がこの一年に流した汗、そして仲間の全員が流した汗の重みなのだ……。
 
 彼がふらふらになりながら戸塚中継所に辿り着いた時、後続の集団にも置いて行かれてしまい、湘南学院は十二位まで順位を落としていた。
 箱根駅伝の復路では先頭から二十分遅れると繰上げスタートとなる、だが三分を残してオレンジ色の襷は九区を走る仲間の手に渡り、受け取った選手は仲間の肩をポンと軽く叩いてスタートして行き、それを見送ることもできないほどに消耗しきった選手は前のめりに倒れこんだ。
 
 仲間に抱き抱えられてチームのテントに運ばれる時、彼は人目をはばからずに号泣していた、そこまで総合二位、三位という結果を夢見ていた仲間の期待を大きく裏切ってしまったことは確かだ、その心中は察して余りある。
 しかし、仲間たちは彼を丁寧に、手厚く救護していた、どの顔にも怒りや失望は見られない。
 確かに彼は失敗した、しかし、彼も仲間と同じ、総合二位、三位という結果を夢見てそれを全力で手繰り寄せようとした、その意気込みが彼の失敗を招いたのは明らか、そしてそれを責める顔はひとつもなかった。
 
 明彦も泣いた。
 袖で拭っても拭っても拭い切れない、しまいには拭うこともせずに涙が頬を流れるに任せて泣いた。
 そして流した涙の分だけ気持ちは軽くなって行った……。
 
 
 
 その後、九区、十区の選手が挽回して湘南学院は九位で大手町のゴールに飛び込んだ。
 最後までオレンジ色の襷を繋いで……。
 十位以内に入る、消極的な目標のようだがそれは違う。
 それは、来年また箱根駅伝にチャレンジする権利を確保できると言うことなのだ。
 確かに予選会を勝ち抜けば箱根を走れる、しかし箱根に照準を合わせることはできない、予選会とて楽な大会ではないのだから。
 すべてを箱根駅伝に合わせて調整し、万全の体勢で挑戦する、そのためにはシード権は逃せない。
 
 箱根駅伝は人気になり過ぎてマラソンランナー育成の妨げになっているのでは? と言う批判もある、しかし、学生長距離ランナーにとって箱根駅伝は特別な大会だ。
 五時間半づつ二日にわたって、ただ学生が走っているだけの放送が高い視聴率を取っているのは、それだけの魅力があり、感動を受けるからに他ならない、ましてその真ん中にいる選手にとって特別なものでないはずがない。
作品名:繋ぐべきもの 作家名:ST