オーロラとサッチャー効果
「なるほど、面白い考え方よね。私も絵を描いていて思うんだけど、空と陸地の境目を描く時は自分が思っているよりも、かなり空を大きく描くくせがついてしまったようなの。それってあなたの感覚に近いものがあるのかも知れないわね」
「そこでもう一つ引っかかってくるのが遠近感の問題なのよ。絵を描く時に、キャンバスを目の前にして筆を立てて、片目で先を見ている光景をよく見るんだけど、あれも遠近感を感じるためなのかしら?」
「そうね。ものさし代わりに筆を使っているという感じかしら?」
「でも、本当にそれで遠近感なんて分かるのかしら? 私には気休めにしか思えないんだけど」
というと、
「そうかも知れないわね。私はしたことがないから分からないんだけど」
と言って、彼女は少し考えたが、
「でもね。遠近感というのはさっきのバランスと切っても切り離せない関係にあると思うの。どちらかを優先すれば、どちらかがおろそかになるようなね。だから、どちらも大切なんだけど、おのずと絵を描いていると、無意識にどっちも大切にするものなの。それは玄人も初心者も同じことで、もちろん私もそうだったわ」
と続けて話した。
「さっきの影の話なんだけど、私はその影という発想は、今のバランスと遠近感を考えていると、おのずと出てくる発想なんじゃないかって思うの」
「ええ、影というのは、平面である絵をいかに立体的に見せるかというところで重要なものなんだけど、それは私はかなりあいまいなものだって思うのよね。だって、真っ黒で影だけでは何も分からない。何しろ影というのは、太陽の光があって、被写体があって初めて存在できるものでしょう? それが真っ黒で実際には被写体から伸びているものだということが容易に分かるからですね」
「影というのは、実際に存在しているものも吸収してしまうものではないかって感じるんだけど、これは考えすぎなのかしら?」
と翔子は自分の考えを述べた。
実際に翔子は、ここまで自分の考えていることを人に話すことはない。よほど相手と同じ考えであると感じた時か、それとも考えは違っても、違う考えを納得しながら話せる相手だと分かっている必要があった。むしろ後者の方が、翔子としては自分の中で信憑性が高いと思っている。
「いいえ、そんなことはないと思うわ。あなたの言う通り、影は実際のものを吸収する力があると私は思うの。現実の世界で誰もが影を何も疑問を感じることなく見ているでしょう? 冷静に考えてみれば不思議な存在なのにね。私はそのことを考えた時、影の存在というのは、絵を描いている時こそ、しっかり意識してあげなければいけないと思うの。そのために、絵を描く時の基礎として、バランスの問題と遠近感の問題があると思っているのね」
「それは逆の発想だと思っていいのかしら?」
「ええ、私もそのつもりで話しています。もっとも、あなたにはそれが当たり前のことのように感じているんだと思うけど、他の人に話せば、意外と不思議に感じたり、納得するどころか、無駄話のレベルで聞き流してしまわれるくらいなんですよ」
「まあ、それはひどいわね。私は真剣に聞いているのにね」
と、翔子は意味もなく怒りがこみ上げてきたのを感じた。
それを見て彼女もニコッと笑ったが、それも翔子の気持ちを分かってのことである。
――ひょっとすると、この人は私が納得いくかいかないかということを重視していると感じているのかも知れないわね――
そう思うと嬉しく思う翔子だった。
「ねえ、二次元と三次元の違いはなんとなく分かるんだけど、あなたは四次元の世界というのを信じている?」
「ええ、私は四次元を信じているわ」
「どんな世界だと思っているの?」
と翔子が聞くと、
「あなたはどう思っているの?」
と逆に聞かれた。
「私は、何となく歪んだ世界が広がっているように思うの。これは発想に限界があるからそう感じるのかも知れないんだけど、まるでダリの絵のように、時計が飴のように歪んでいる世界ね」
「なるほど、世間一般に言われている世界のことね」
「ええ」
と言いながら、翔子は人と同じでは嫌だと思っている自分が、世間一般と言われる発想しかできないことに苛立っていた。
――それをこの人は看破しているのかも知れないわ――
と感じると、何かむず痒いものがあった。
――まるで箱庭に入っている私が見られているようだわ――
と、箱庭の夢を思い出した。
「じゃあ、あなたは、四次元の世界をどう感じているの?」
「私はね。左右対称の世界だと思うの」
「鏡の中の世界のように?」
「ええ」
「どうして?」
「鏡の中の世界って、左右が対称になっているんだけど、おかしいと思わない?」
「えっ? どうして?」
「だって、上下が対称ではないでしょう?」
と言われて少しあっけにとられ、何といえばいいのか分からなかった。
彼女は続ける。
「きっと少し考えれば、それも当たり前のことだって気付くと思うんだけど、でも、考えれば不思議なことなのよね。しかもその不思議だということにすら、誰も気付かない。二重に張り巡らされたトラップだと思うの。それは鏡の世界だけに限らず、私は四次元の世界にもあると思うのよ。だから、普通に考えただけでは、四次元を理解することはできない。普通は一つの発想には一つしか答えがないと思っているでしょう? 本当は一つなんかじゃない。縦に繋がった複数の答えが用意されるべきなのが、四次元の世界だって私は思っているの」
「じゃあ、三次元から二次元の発想や一次元の発想も同じことだっていうの?」
「少なくとも私はそう思っているわ。二次元という発想にたどりついても、それがゴールではない。四次元の世界だって同じことでしょう?」
そう言われて翔子は自分が何を考えているのか、少し分からなくなっていた。
彼女は続けた。
「四次元の世界って、私も実は半分は信じられない感覚なんだけど、世間一般には、立体に時間軸が加わったようなものだって言われているでしょう?」
「ええ、私もそう思っているわ」
「でもね、時間軸をそこに付け加えると、時間というものに対して考えられることの矛盾を看破しないと、四次元の世界を創造することはできないと思うの」
「矛盾というのは?」
「そうね。いわゆるパラドックスと言われるものじゃないかって思うの」
「パラドックスって、矛盾のことなの?」
「直訳すると、逆説ということになるんでしょうけど、時間軸の発想には矛盾がたくさんあるのよね。たとえば、タイムマシンを創造する上で、避けて通ることのできないものの発想として、『メビウスの輪』というものがあるのを聞いたことがあるかしら?」
「ええ、聞いたことはあります。何でも細長いたすきのような紙を捻るように重ねて輪のようにして、その上から真ん中にペンで直線を引いていくと、最後には重なるというものなんでしょう?」
作品名:オーロラとサッチャー効果 作家名:森本晃次