タイトル未定
「みんなはよっぽど野球がやりたいんだな」
「っ……だとしても!顔出すぐらいしてよ」
「俺は野球なんかやりたくないんだよ」
「それは……」
ここまで言うと流石のシゲも無理だと思ったのか、「じゃあ気が向いたらでいいから」と言って帰っていった。まぁ、帰っていったと言っても二時間後には学校のグラウンドでアップのランニングを始めているはずだ。
寂しそうに去っていくシゲの背中を見送っていると、「おい!」と声がかけられた。
ここ数日の間、何度となく聞いた声だった。
「おいじゃねぇだろ和志」
「なんで俺の名前知ってんだよ気持ち悪いな!早くスタンプ押せよ!」
なんて言いながら、つり目をもっと釣り上げて和志はスタンプカードを差し出してきた。こいつの性格から考えて、スタンプカードを投げつけてきてもおかしくはないのだが、姉の手前でそんなことはできないのだろう。
「なんでお前の名前知ってるかって、そりゃあここ数日でお前の名前を何度も聞いてるからさすがに覚えるだろ」
受け取ったカードにスタンプを押し、そのまま返す。
「うわっ、それで覚えるのかよ気持ち悪いな。でも残念でしたー」
和志は偉そうに胸を張ってみせる。
「何が残念なんだ」
「おれは和志じゃなくて彰人の方でーす」
あっかんべーとやりながら、得意げに自称彰人の和志が言う。
「いや、ダウトだね。お前は目尻がつりあがってるから和志だ。彰人はそっちだ。眉毛が薄い」
「そこまで見てんのかよ。本格的にきもちわるいな」
そう言いながら彰人がカードを差し出してくる。
「お前らな。そんなことばかり言ってたら姉ちゃんに怒られるぞ」
「うるさい!お前が姉ちゃんを姉ちゃんって呼ぶな!」
「そうだぞ!気持ち悪いぞ!」
二人揃って騒ぎながら指をさしてくる。
「そんなこと言ったって仕方ないだろ」
俺は彼女の名前を知らないんだ。その言葉を言おうとした時、「二人とも!」と後ろに並んでいた彼女が少し怒った口調で言った。
「どうしていつもそんなに酷いことばかり」
彼女がそう言うと、和志と彰人は逃げていった。
「あぁこれ。彰人のスタンプカード」
「ありがとうございます。いつもいつもすいません。あの子たち、失礼なことばかり言って」
「いやいや。大丈夫だよ。俺はあまり気にしてない」
「二人にはきつく言っておきますね。私もスタンプお願いします」
そう言いながら、彼女はスタンプカードを二枚差し出してきた。
「あれ、二枚?」
「はい。今日はお婆ちゃんがいますので」
彼女がずらした視線の先を見ると、しいたけ婆ちゃんがいた。俺は小さく頭をさげる。
「この間は婆ちゃん来てなかったよね」
確認するように聞くと、彼女は若干目を伏せて「最近、あまり体調が良くないんです」と言った。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと後悔した。
正直もう少し話していたかったけれど、彼女は自分の後ろに並んでいた人たちに迷惑をかけることを気にして、俺からスタンプカードを受け取るなり「ではまた」と言って去って行ってしまった。
面倒な仕事を片付けて家に帰ると、家の前の道路で再び三人と遭遇した。
「「出たな!」」
そう言いながら和志と彰人が俺を指差す。二人の左手にはグローブがはめられており、和志は右手に野球ボールを持っていた。
「なんだ。お前たち野球やってんのか」
「そうだぞ。お前みたいな引きこもりと違って俺たちはスポーツマンだからな」
自慢げに和志が言った。
「引きこもりなのは否定しないけれど、俺も一応はスポーツマンだぞ」
「えっと…りょうさん?はなんのスポーツをやっているんですか?」
和志と彰人のキャッチボールを見守っていた彼女が俺の名前を呼んで聞いてきた。
「あれ、俺の名前…」
「あぁいや。お婆ちゃんがりょうちゃんと読んでいましたし、お友達もあなたのことをりょうくんと読んでいたので」
少しオロオロとしながら彼女が弁明のように語った。その様子が可笑しくて、可愛らしくて、俺は思わず小さく笑ってしまった。
「さんはあまり好きじゃないな」
「え?」
「名前の呼び方。さん付けはあまり好きじゃない」
俺がそう言うと、彼女は両手を指の腹同士で軽く合わせ、少し顔を赤くして言った。
「じゃあ…りょうくんで」
思わず視線を逸らしてしまった。
「ありがとう」
そう言うと、逸らした視線の先で和志と彰人がニヤニヤと笑っていた。
「じゃあ私のことは−」
と、彼女がずっと聞きたかった名前を名乗ろうとした時、しいたけ婆ちゃんが「けーちゃーん」と彼女を呼んだ。彼女はハッとした様子で家の方を見ると「すぐ行きまーす」と返した。
「じゃあ、俺も婆ちゃんに習ってけーちゃんって呼ぶよ」
俺の言葉を聞き、彼女は−けーちゃんは両目を見開いた後、「はい。それでお願いします」と微笑んだ。
俺はやっぱり、そんな彼女の顔をまっすぐに見ることができなかった。
歩き去る彼女の背を見ていると、和志が俺の肩を叩いて「顔赤くなってるぜ」と言った。
「やかましいわ」
「姉ちゃん。今は彼氏いないぞ」
その言葉を和志がどういった意味で言ったのかは俺にはわからなかった。
「まぁ、お前には無理だけどな」
彰人が俺のもう片方の肩を叩きながらいった。
前言撤回だ。こいつらは最初から俺をからかうつもりで言っただけだったようだ。
そのすぐ後、彰人が呼ばれて家の中に入っていった。
「ところでさ、結局なんのスポーツやってんの?」
思い出したとでも言うように、和志が言った。
「あぁ。そういえば言えなかったな。俺も野球やってんだよ」
「え!マジで!?」
「マジだよ。肩強いから球は速いぞ」
そう言うと、和志は目を輝かせて「じゃあさ!」と言った。
「俺とキャッチボールしてよ!」
「7時半になったら俺はじいちゃんと朝飯食いに行くからそれまでな」
「7時半って、後30分以上あるじゃん。結構できるじゃん」
「ちょっと待ってろ。グローブとってくる」
部屋に戻り、三つ持ってるグローブのうち最後まで使っていたグローブを持って行った。好きな球団の尊敬している選手のモデルだった。
そのグローブを見て和志はまた目を輝かせた。
「うお!すげぇ!井端《いばた》モデルのオールランドじゃん!凌って内野手なの?ピッチャーなの?」
嬉しそうに聞いてくる和志が俺のことを名前で呼んだことに気づき、少しだけ嬉しい気持ちが湧き上がってきた。
「いいやどっちでもない。俺は外野手だよ」
「なのにこんなの使ってんのかよ。いいなー」
「それよりも早くキャッチボールやるぞ。時間がなくなる」
「大丈夫!それなら心配いらないから」
何を言っているんだ?と思って首をかしげると、和志は得意げに親指を立てた。
「朝ごはんをウチで食べてけば問題ないだろ」
「……は?」
急すぎる話でそれ以上のリアクションができなかった。
「だーかーら!ウチでご飯を食べてけよって言ってんの!婆ちゃんにも姉ちゃんにも確認してきたから!」
「いやいやいや。お前の父さんと母さんには確認したのか」
「それも大丈夫。今二人は用事があってどっかに行ってるからしばらく居ないんだ」