タイトル未定
けーちゃんがここまで頑固な人だと昔の俺は知らなかった。
「私のお願いを聞いてくれませんか?」
震える声のまま、けーちゃんは言った。その言葉に彼女のあらゆる感情が込められているような気がして、俺は拒絶することができなかった。
「………いいよ」
「ありがとうございます。……その……手を握ってくれませんか?」
「…ああ」
俺は隣に座るけーちゃんの手を確かに握りしめた。
「あぁ。暖かい」
「今は夏なんだから暑いだろ」
「ふふ…。確かにそうですね」
それから小一時間ほど、あの夏の夜と同じように俺たちは互いの過去を教えあうように話をした。
荻野京華《おぎのけいか》と言う一人の女性ではなく、けーちゃんというあの夏の少女と失われた時間を取り戻すように話をした。
「凌くんは彼女ができたことありますか?」
「……あるよ」
「え…」
「いや、聞いておいてなんで驚いてんだよ」
「いえ。私はずっと恋人を作らずにいたのになんて思ってはいませんよ」
「ははは。それは悪かったな。でも、俺はてっきりけーちゃんにはもう彼氏がいるものだと思っていたよ」
「忘れようと頑張っていた時点で過去に囚われているんです。先に進むことなんてできないですよ」
「それもそうか。なんか、俺が薄情なやつみたいだな」
「ええそうですよ。凌くんは薄情な人です。でも、そこも含めて私は好きです」
「ああ。けーちゃんのそういうところが俺は好きだ」
「ふふふ。照れますね」
「そんなこと言われたら俺も照れるだろ。やめてくれよ」
「聞いてもいいですか?」
「何を?」
「その彼女さんというのは私の知っている人ですか?」
何を思って彼女がそんなことを聞いているのか、本当にわからなかった。
「ああ。けーちゃんが言っていた、けーちゃんよりも俺を幸せにできるっていうあいつだよ」
「なら良かったです」
ここで、けーちゃんが何かを言おうとしてぐっと飲み込んだのがわかった。
「けーちゃんはさ、今は好きな人とかいないの?」
「いますよ」
「…え」
「何を驚いているんですか?自分が聞いたことじゃないですか」
「そ、そうだよな」
「ふふふ。聞かないんですか?」
「何をだ?」
「その好きな人っていうのは俺の知っている人か?ってことをです」
「…。聞いてもいいのか?」
「ええ。もちろんです」
「その好きな人ってのはさ、俺の知っている人なのか?」
「そうですよ」
「え、まじかよ。誰?」
「凌くんです」
安堵した。それと同時に恥ずかしいという感情が浮かび上がってきた。
「そういうことか」
「そういうことです」
「……」
「……」
「…」
「…」
耳をすませば蝉の声が聞こえてきた。けれど、もう夏も終わりに近づいていて、蝉たちもそれを感じ取っているようで蝉の声は先週よりもはるかにまばらなものだった。
昔のことを思い出してしまった。あの夏の夜のことをだ。
もしあの時の選択を違えていなかったら、この空白の4年間が今と同じ時間に彩られたていたのかと考えると、悔しくて悔しくてたまらなかった。けれど、そんなものは思ったところでどうにもならない。だからこそ俺たち人間は選択を重ねて、失敗を失敗で塗り替え続けて後悔を繰り返すんだ。
俺はまた選択をする。
「なぁ。けーちゃん」
「なんですか。凌くん」
「俺はけーちゃんのことが好きだ」
「私も凌くんのことが好きです」
「俺の恋人になってくれないか」
「ごめんなさい。それはできないです。凌くんのことが好きだからこそ、あなたの恋人にはなれません」
「そっか。やっぱりダメか」
「はい。私も我慢をするんですから、凌くんも我慢をしてください」
「それが…けーちゃんの幸せなのか?」
「はい。私の幸せはあなたが幸せになってくれることですから」
「……わかった。じゃあ俺も我慢するよ」
「ありがとうございます。でも、一つだけわがままを言ってもいいですか?」
「もちろんだ」
「今この時間だけは恋人のように接してください。私に、あなたと恋人同士だったらのもしもの時間をください。ほんの少しだけでいいんです。それだけで私は荻野京華に戻りますから」
その言葉の意味は嫌でもわかってしまった。
けーちゃんはあの夏の少女であることを押し殺して荻野京華として今まで過ごしてきた。そして、彼女はこれから先、あの夏の少女ではなく荻野京華として、俺のことを好きでいてくれたあの夏の少女では無い一人の女性として生きていくのだと言っているのだ。
つまり、今のこの時間はけーちゃんにとってだけではなく、俺にとっても夢の時間ということになる。覚めれば無かったことになってしまう淡く綺麗な時間。その時間に俺たちは居る。
並んで進むことができなかった俺たちはあの夏の延長線上の最後の時間に確かに居る。
「……いいよ。それを断る理由なんて俺には無いさ。だって−」
そんなつもりは無かったのに、涙が溢れてきた。それは止めることなんてできなくて、次から次へと溢れ出して俺の頬を濡らした。
「だって。それは俺が欲しかった時間でもあるんだから」
「…ありがとうございます」
次の瞬間、けーちゃんは勢いよく抱きついてきた。突然のことでバランスを崩した俺はそのまま後ろに倒れこんでしまった。
いい歳した俺たちは互いに涙を流しながら、好きだと言い合いながら抱き合った。いやらしい意味とかではなく、本当に純粋に俺たちは抱きしめあった。
夏の暑さだとか、滲み出る汗だとかは気にならなかった。そんなことよりも、抱きしめたけーちゃんの華奢な体の柔らかさだとか、熱だとかが鮮明に俺に伝わってきて、この感情を消さなければならないのだと思うと涙が止まることなんて無かった。
でも、いつまでもそうしていられるわけではない。
夢は必ず覚めるものだ。
「凌くん。キスしてもいいですか?」
その言葉の意味合いもすぐにわかってしまった。
もう、夢から覚める時間が来たのだ。
ここで彼女とキスをしてしまえば、あの夏の二人としての、あの夏の延長の関係としてのこの時間は消えて無くなってしまう。夢の中の出来事は現実には持ち出せない。
それはどうしても嫌だった。いつまでもいつまでも、この甘い綿菓子のような香りの時間に浸っていたかった。でも、それはできないことだという事実もわかりきっていた。
彼女が夢の終わりを示したということは、彼女がこの綺麗な記憶を無かったものにしたいと望んでいるということだ。それが彼女の幸せだというのなら、俺には拒絶する理由なんて無かった。
「ダメなわけ無いだろ」
俺がそういうと、けーちゃんは涙を流したまま今まででいちばんの笑顔を見せてくれた。それは、俺の記憶の中でいちばん綺麗な彼女だった。
「ふふふ。ありがとうございます」
最後に少しだけ見つめあった後、俺たちは静かにキスをした。
涙のせいか、少ししょっぱかった。
こうして俺たちは夢から覚め、凌くんとけーちゃんの関係から藤沢凌と荻野京華の関係に戻った。
これ以降、彼女が昔のように敬語で話すことは無かった。
「ねぇ母さん。父さんがいつも言っているあの話って本当なの?」
可為多が疑いまじりに聞いた。それに雪乃は「どうだかねー」と答えた。