タイトル未定
「…ごめん。ありがとう雪乃。行ってきます」
俺は通話の終了ボタンを押して、すぐに身支度をした。身支度と言っても部屋着から近所に出かける時用の簡単な服に着替えるだけだ。
時間はまだ11時ごろで、いつもの時間よりもかなり早かった。けれど、俺はいつもの世間話の時間まで待てるほど真面目な人間じゃなかった。心臓が高鳴った。
話し始めはどうしようか。どうやって本題を切り出そうか。そればかりを考えながらサンダルを履き、家を出た。
もうすぐ秋になるとは言えまだ8月。照る日の光は眩しくて、肌がジリジリと痛むほど暑くて、俺は思わず目を細めた。背中に粘っこい汗がにじむのがわかった。けれど、俺は歩き始めた。
快晴というほど天気は良く無い。空には雲がたくさん浮かんでいて、きっと夜には雨が降る。けれど、そんな事は今の俺には関係なかった。
こうして俺は敷地と敷地の境界線をまたいだ。今まで一度も足を踏み入れた事の無い京華の家の敷地に俺は確かに一歩踏み出した。
ここから先がどうなったのかだって?それはもちろん−
最終幕:『タイトル未定』
「で、どうなったの?」
「どうなったと思う?」
俺が聞き返すと、娘は頬を膨らませてわからないと言った。
「父さん。その話し何度目だよ」
「まだ3度目じゃないか?」
「もう5回目だよ。どうせいつもみたいに最後は教えてくれないんでしょ」
「ははは。バレたか」
「バレバレだって。どうせ作り話でしょ?」
知ってるんだぞとでも主張するように息子はため息まじりに言った。
「さーて。どうだか」
俺はわざと濁すように笑いながら会話を終わらせた。ちょうどケトルがカチリと音を鳴らし、湯が沸いた事を知らせてくれた。
コーヒーを淹れ、それを一口だけのんで小さく息を吐く。
リビングのソファに座って教育番組を見始めた娘の灯花《とうか》と、その隣で話を聞いている時からずっとゲームをやっている息子の可為多《かなた》を見るとまだどこか自分が夢の中にいるのでは無いかと思えてくる。
まさか自分が父親になってこうやって子供を育てる事になるなんて、15歳のあの時には思いもしなかった。
もう、可為多が生まれてから七年、灯花が生まれてから五年が経つ。
彼女と再会を果たした時からは十一年が経つ事になる。あの時の事はまだ忘れられない。彼女と初めて出会った夏の日と同様、俺にとってはとても大切な思い出だ。
懐かしい思い出に浸っていると、家の外から駐車場の砂利を踏む音がした。灯花がその音を聞いて真っ先に立ち上がった。日中だから白の薄手のカーテンしか閉めていなかったが、灯花はそのカーテンを開いて窓に張り付くように外を見た。
「あ!雪ちゃんだ!」
それを聞いて俺は立ち上がった。お出迎えをしないといけない。
俺は二人を連れて玄関まで行き、ちょうど開けられた玄関の扉へと、その先にいた人物へと声をかけた。
「おかえり。雪乃」
続いて可為多と灯花もおかえりと声をかけた。
雪乃はそれにしっかりと「ただいま」と返し、いつも通りの笑顔を見せてくれた。
もうここまで話せば事の顛末なんてわかるだろう?
ピンポーンと、我が家のものと同じようなインターホンの音が響いた。少し待つと、「はーい」と言う京華の声とともにバタバタとした足音が近づいてきた。その足音に煽られるようにして、俺の心臓はより激しく高鳴った。
扉が開くまでの間、何を言おうかとかそう言った事は考えなかった。考える余裕がなかったっていうのもあるけれど、彼女にかける言葉はもう決めていたのだ。考える必要などなかった。
鍵を開ける少しばかり重苦しい音がした後、次いで扉が開けられた。
「あれ、どうしたの?」
突然訪ねてきた俺に驚きながら京華は聞いてきた。
不思議そうに首をかしげる京華を前に、俺は深呼吸をした。
「……」
「あの…何か用事があった?」
「……」
「あの……」
「……けーちゃん」
確かに、京華はビクリと肩を震わせた。
「遅くなってごめん。……久しぶり」
京華は…。けーちゃんはわかりやすく顔を歪めた。その意味合いを俺は知らなくていい。
「ずっと…。ずっと言おうと思っていたことがあるんだ」
「…どうして」
「……え?」
「どうして気付いたんですか?」
「それは……」
気付いたけれど、目の前にいるのはつい最近知り合った明るくてフレンドリーな京華ではなく、あの夏の思い出の少女だった。
俺はけーちゃんの言葉を聞いて、そんなことかと思わず笑ってしまった。
「最初からもしかしたらって思ってたんだ」
「そんな…」
「俺はけーちゃんのことをぜんぜん知らない。けーちゃんがどんな考え方をする人間なのかとか、けーちゃんがどんな人生を生きてきたのかとか何も知らない。俺が知ってるのはせいぜいけーちゃんの声だとか見た目だとか、そんなものだよ」
「じゃあどうして私だってわかったんですか?蓄膿症を直して鼻声じゃなくなってその他にも色々と変わったのに、どうして私だってわかったんですか?」
「正直、俺はもしかしたらって思ってただけで確信なんてもってなかったよ。せいぜい毎日話していく中で昔の君と今の君の共通点を少しずつ見つけていた程度だ。核心したのは…和志がこの家に入っていくのを偶然だけど見たことがあったからだよ」
けーちゃんは「ははは」とから笑いをした。
「せっかく私が別人であるかのように振舞っていたのに全部無意味だったんですね」
「どうしてわざわざ別人を演じてたんだ?」
「それは……もう言った事があるじゃ無いですか。あなたの人生に私は居なくて、私の人生にあなたは居なかった。そう割り切って生きている以上、今更私が自分の捨てたものを欲しがるなんてできないんです」
けーちゃんの瞳に涙が滲んだ。彼女が顔を歪めていたのは嫌悪やそれに近い感情が原因では無いのだとわかった。
俺は思わず目を逸らしてしまいそうになった。か弱く涙を流しそうになっているけーちゃんの姿が見ていられなくて、それを見てしまうことへの罪悪感のようなものがあって、俺は彼女から目線を外したいと思った。
けれど、そこで逃げればあの夏の日を、花火の下での出来事をもう一度繰り返してしまう気がして、俺はなんとか頑張って彼女を見つめ続けた。
「違う。違うんです」
そう言いながらけーちゃんはとうとう涙をボロボロと流し始めてしまった。堪えていた何かの感情が自分自身の言葉で抑えられなくなってしまったのだろう。
両手のひらで顔を隠し、泣いている姿を見られまいとした。そして顔を隠す手に指輪は無かった。
「そのままでいいから聞いてほしい。何か言葉を返してほしいとかそういうのは無いから、ただ俺の話を聞いてほしい」
けーちゃんは泣きながら静かに頷いてくれた。
俺はありがとうと言い、話の本題に入った。
「俺さ、ずっとけーちゃんに言いたかった事があるんだ」
大切なものは失ってから気づくと言った人間がいた。正直、そんなものは詭弁だろうと思っていた。
「こんなことを言ったらさ、けーちゃんが俺の前からいなくなるよりも前にどうして伝えなかったんだと思うかもしれない」