タイトル未定
「あいつはさ、おとなしい女の子だったんだ。いや、おとなしいというよりは物凄くまともな人間だったんだ」
「まとも?」
「そうだ。まともだ。あいつは自分一人の幸せよりも自分を取り巻く周りの人間の幸せを願った。まるでそれが自分の幸せであるかのように振る舞っていた」
「それのどこがまともなの?少なくとも、私からすればまともじゃないように聞こえるよ」
「そう言われると確かにまともじゃないように思えるな……。でも、少なくともわがままばかり言って生きていた俺よりはずっとまともだと思った。だから、こんなにも正しい少女が俺みたいな間違った少女と結ばれる事はないだろうと思った」
「……そんなの…。気持ちは伝えたの?」
悲しそうな表情をする京華に、俺はわざとらしく首を振ってみせた。否定を意味するように、ゆっくりと噛み締めるように、横に振った。
「言ったろ?あいつは周りの人間の幸せを願ったんだ。俺があいつに好きだと伝えたら、あいつは俺の幸せを踏みにじらないように必ず受け入れる」
「……」
「でも、それじゃあダメなんだ。あいつの幸せが前提に無い。俺は、俺を幸せにしてくれた少女の事を幸せにしてあげる事はできない。なにせアイツの事を俺は何も知らなかったんだ。何が好きなのかとか、何に対して幸せを感じているのかとか、そういったものを何も知らなかった。だから、俺は自分も幸せを切り捨てたんだ」
後になればなるほど鮮明になる当時の俺の心境は本当に吐き気がするようなものだった。だって、そのほとんどが耳障りのいい言葉だけを並べた虚偽だからだ。
本当のところ、俺は怖気《おじけ》づいただけだ。他人を拒絶する事が無いと思い込んでいた相手に拒絶されてしまったらと言うもしもを想像し、勝手に怖くなって逃げ出しただけだ。
「だからその女の子に気持ちを伝えなかったの?」
「そうだ。それがアイツのためになると思ったから俺は自分の気持ちを大切にしまい込んだ」
京華はしばらく俺の顔を見つめた後、小さくため息をついて右手の人差し指を立てた。
「一つ、私の初恋の話のその先を話してあげる。エピローグってやつだね」
そう言うと、京華は呼吸を整えるように一度だけ深く息を吐いた。
「私の初恋の男の子はね、私の事が好きだったの」
突然自慢のようなカミングアウトをされて、俺は少しだけ驚いた。
「私自身は気付かなかったんだけれど、弟がどうも本人と話をして聞き出したみたいで、私は両思いなのだと気付いた嬉しかった。だから、この人と恋人の関係になりたいとより一層強く願うようになったの。けれど、私は根暗で内気だったから自分から思いを伝えるような事はできなかったの。だから−」
だから私は待とうと決めたのと京華は言った。自分からは思いを伝えられないけれど、きっと自分の事を好きな相手の男の子は自分にできない事をやってくれる。私に思いを伝えてきてくれる。だからそれを待とうと私は決めたのと、京華は悲しい思い出を思い出すようにすぼんだ声で語った。
「でもね、私が待ったその瞬間は来てくれなかった。彼が私に思いを伝えるよりも前に、私は彼の居ない遠い場所に行かないといけなくなったの」
「引っ越しでもする事になったの?」
「うーん。もう詳しく思い出せないんだけど多分そんな感じだった。で、その時私はなんて思ったと思う?」
「……さあ」
「どうして私に気持ちを伝えてくれなかったのかと思ったの。彼が私を望んでくれれば、私はそれを受け入れるつもりでいたのに、それが私の幸せでもあったのに、どうして彼は何も私に言ってくれなかったのだろうって私は思った」
どう?とでも問いかけるかのように、京華は俺を見つめてきた。俺は、思わず目をそらしてしまった。さっきよりも詰め寄ってきた京華の甘ったるい香りから逃げるように、俺は目をそらした。
「それから京華はどうしたの?」
「どうもしなかったよ。彼の人生に私は居なかったって自分に言い聞かせて、私も彼がいない日常に戻っていった。それからは普通に学校に通って勉強して今になるかな」
結局、俺はただ彼女の共犯者にされてしまっただけで、彼女を俺の共犯者にする事はできなかった。
そうやって互いの過去を教えあうような日々が続いてまた2週間が経過した。もう8月の半ばで、川祭りも神社の祭りも終わってしまった。あの夏にけーちゃんと見た思い出の花火を今年はしらのと見た。
一緒に見る相手が違えば花火の見え方も変わるのかと思っていたけれど、そんな事はなかった。黒に染まり切らない淡い群青色を染め上げた光の花はあの人変わらずに綺麗なままだった。
俺と京華の関係は相変わらずだった。昼頃に世間話をするだけで、それ以上に発展することはなかった。別にそれを寂しいだとか物足りないと思う事はなかったけれど、話している最中に時折顔を赤くする京華の様子が気になった。
初恋の話をして以来、俺たちは恋についての話をする機会が増えた。初恋の思い出の深堀もそうだけれど、互いにどんな異性が好きなのかとかそういった話をする事が多くなった。けれど、京華はすでに結婚しているわけで、その事実が俺たちの関係を変わらずに保たせてくれた。
さらに時間が過ぎ、8月も終わりにさしかかろうとした頃、俺は偶然見かけてしまった。
母親に頼まれて洗濯物を干していた時だった。見慣れた人影が京華の家に入っていくのを見た。それはしいたけ婆ちゃんの家で暮らして居る和志で、インターホンの音を聞いて玄関を開けに来た京華は和志の顔を見るなり嬉しそうに家の中にいる誰かを呼んだ。
京華に呼ばれて出てきたのはもう随分と成長してしまって見た目が変わっていたけれど、確かに彰人だった。彰人は嬉しそうに和志とハグをすると、家の中を指差して何かを言った。そして、三人で楽しそうに笑いながら家の中に入っていった。
俺は何もかもを勘違いしていたのかもしれないと思った。
リビングで100均の安物の充電器に繋がれていたスマホを手に取り、俺はすぐに自分の部屋に戻った。
電話帳から名前を探し出し、俺は迷わずコールした。
プルルルルと音がなり、すぐに相手は電話に出た。
俺は自分を落ち着かせるために深呼吸をして、しっかりと言うべき事を話そうと口を開いた。
「雪乃。話があるんだ」
彼女の事を雪乃と呼んだのなんて、実に十年ぶりぐらいだった。
俺が彼女の事をしらのと呼んでいたのは一種の愛情表現のようなもので、彼女が特別であると主張するようなものだった。それをしなくなったということはもう彼女は俺にとって特別でもなんでも無くなってしまったという事で、それだけのことで雪乃は全てを察した。
いつかこんな日が来るだろうと思っていたと最初から諦めていたかのように雪乃は言った。
俺は彼女にごめんと謝る事しかできなかった。
「いいよ気にしなくて。凌があの女の子の事をまだ好きだってのは知ってた事だし。その代わり、フラれたら迷惑料として私に雪月花の一番高い焼肉コースをおごってよね」
雪乃の声は分かりやすい涙声だった。
「わかった。その時は残念会として朝まで呑もう」
「それは私たちには背伸びしすぎだよ。朝までカラオケね」
「じゃあそれで」
「いってらっしゃい」