タイトル未定
「お前、彼女がいるんだろ。あの綺麗な人、雪乃さんだっけ?」
「…まぁ」
「でさ、今もあの人から電話があったわけだけど、その上で姉ちゃんに会いたいとか言ってんの?」
「………」
今度は生返事すら返せなかった。
さっきの俺よりも最低だ。
「たぶん。凌が会いたいって言えば姉ちゃんは喜ぶし、そんで姉ちゃんも会いたいって言うと思う」
「…だから、俺はずっとけーちゃんに会いたいって言ってるだろ」
「ああそうだな。でも、俺は今のお前を姉ちゃんに合わせる事はできない」
「それはどうしてだ」
「誰一人として楽しかったあの頃と同じじゃないからだ」
眠くなってきたと言って目元を手の甲で擦る和志を見て俺は違和感を覚えた。
「あれ。和志お前、今の俺とけーちゃんを合わせる事ができないって言ったよな」
「ああ。言ったな」
「それって…」
合わせるための手段があるって事なのか?
俺がそう聞こうとしたタイミングで、和志は自分の失言に気づいたように両目を見開いた。
「喋りすぎた。もう帰る」
「あ、おい待てよ」
「嫌だね。あとは一人で悩んでろよ」
それだけ言い残し、和志は学校のカバンを掴んでさっさと我が家から出て行ってしまった。
夏休みってのは特番を名乗るくせに面白くないテレビ番組がいくつもやっていて、俺はリビングのソファに寝っころがってその中ではまだマシな方のバラエティ番組を見ながら特別な事が起きない退屈な夏の時間を食いつぶしていた。
すると、同じくリビングでテレビを見ていた母が思い出したとでも言うように「そういえば」と言葉を放った。
「隣の家、完成してたでしょ?」
「あぁ。そういえば隣に家作ってたな」
そしてそれは1年ほどの長い時間をかけて完成されていた。
「で、あの家って若い夫婦が建てたって言われていたよね」
「そうだっけ?」
記憶になかった。
「そうそう。で、今日あんたが出かけている間にその夫婦が二人で挨拶に来てたんだけど若い夫婦って言ってたけど結構な歳の差よ?」
「へぇ」
正直いってあまり興味のある話題ではなかった。母は少し昼ドラとかの見過ぎでちょっとでも自分の境遇と違う人間を見つけるとすぐに興味を示してしまうだけだろうと思った。
「へぇってあんた、興味なさそうね」
「あんまり興味ないね」
「ああそう。ま、しゃべり続けるから問題ないけどね」
何が問題ないのかはわからないが、母は宣言通りに話し続けた。
「奥さんの方はたぶんだけどあんたとそんなに年が変わらなくて、旦那さんの方は30代半ばぐらいだったの。それで、奥さんの方なんだけどモデルか何かやってるんじゃないかってくらい綺麗な人だったのよ」
そこから先の母の話はここまで以上につまらない話だったから俺はもう覚えていない。
けれど、俺が必要ないと切り捨てたその情報は思いの外に重要で、三日経った7月24日の昼間に脅威となって俺の前に現れた。
もしかしたら脅威という言葉はふさわしくなく、何か他の言葉を当てはめるべきかもしれない。だとしても、その出来事が俺にとって望ましくない物事である事は間違い無く、俺は再びあの夏の事をより強く思い出してしまう事になった。
7月24日。それは夏休み初頭の1日だったけれど、日頃の怠慢の影響で学校へ補講のために出向かなければならなかった日だ。
朝の九時から3時間にわたる補講を終え、俺は一人暮らしをしているアパートでは無く実家へと戻っていった。というのも、夏休みはバイトを1日も入れず、すべてを実家でダラダラと過ごそうと決めていたからだ。
親に借りた車を慣れない手つきで実家の狭い駐車場に止めていると、不意に向かいに建った一軒家が目に入った。白を基調とした2階建ての一軒家だ。その家の、我が家とは違って庭先ある物干し場で一人の女性が楽しそうに洗濯物を干していた。
俺はその様子を見て息を飲んだ。なんて美しい女性なんだ。そう思ったからだ。
長い黒髪を後ろで束ねたその女性は左目尻にあるホクロのせいか、やけに大人っぽく見えた。
どことなくだけれど、あの少女に似ていた。今も記憶に焼き付いて俺を蝕み続けるあの少女に。
しばらくの間、見惚れるようにその女性を見つめていると、向こうは視線を感じたのか俺に気づき、少し驚いたような顔をした後に小さく頭を下げてきた。
妙に色っぽいその仕草に引っ張られるように、俺も会釈を返した。
「こんにちは」
女性は洗濯物を干すのを中断し、こちらに歩み寄ってきて声をかけてきた。
「こ、こんにちは」
「ふふふ。そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。きっと、同じような年齢でしょう?」
語調の固い俺の様子を見て、女性は微笑んだ。あの少女も似たようなことを言っていたと気付いた。
きっと、多くの人間はこの女性とあの少女を同一人物だと感じるだろう。現に俺もそう疑った。容姿はどことなく似ていて、同じような言葉を俺にかけていた。可能性は十分にあった。
けれど、二人は別人なのだと俺は確信した。
女性は綺麗な高い声をしていて、あの少女のように鼻が詰まったようなくぐもった声はしていなかったからだ。それに−
「この前挨拶に行った時にはいませんでしたよね?」
「あ、ああ。えーっと。ちょっと用事で出かけていたので」
「大丈夫ですよ。敬語じゃなくて」
「それは…そっちが敬語なので」
「ああ。そういうことなら私も敬語は辞めるね」
そう言って女性は微笑んだ。
今目の前にいる女性は声質からしてあの時の少女とは違う。それに、何より女性の言葉遣いやその態度はいつかの少女のように丁寧すぎるものではなく、砕けているものだった。
だからこそ俺は確信した。二人は別人だと。
「ありがとう。じゃあ俺も敬語は辞める」
「ふふふ。こちらこそありがとう。私、こっちに引っ越してきたばかりで友達が居ないの。よかったら仲良くしてくれる?」
そう言いながら差し出された女性の右手を俺は自分も右手を差し出して確かに握り返した。
「俺でよければ。仲良くさせてもらうよ」
「ありがとう。これで寂しい思いをせずに済むわ」
新婚なんだから寂しい思いをすることはないだろうと思ったけれど、それを口に出すのは無粋だと思ったから控えた。
「私は荻野《おぎの》京華《けいか》。昔この辺りに遊びに来たことがあったけれどもうあまり覚えていないの。わからないことだらけだから色々と教えてね」
「荻野……けい…か?」
けーちゃんの顔が思い浮かんだ。
「どうかした?」
心配するように荻野は俺の顔を覗き込んだ。
「いや、ちょっと考え事をしてた。ごめん荻野さん」
「むー」
わざとらしくそんなことを言いながら、荻野は頬を膨らませた。
「どうかした?」
今度は俺が彼女に聞き返す。
「私、それあんまり好きじゃない」
「それって?」
「荻野さんっての」
「ああ。なるほど」
「京華でいいよ。そっちのほうがいい」
「わかったよ。ごめんな京華」
「うん。それでいい」
満足したように京華は頷き、「あなたは?」と俺に名乗るように促してきた。
「俺は藤沢《ふじさわ》凌《りょう》だ」
「わかった。凌くんだね」
「呼び捨てでいいよ」
「じゃあお言葉に甘えて。改めてこれからよろしくね。凌」