短編集41(過去作品)
あながちお世辞に聞こえないのは、砂原も同じ意見だからだ。ランチに来る人は、食事だけをしに来ている人がほとんどであろう。
女の子は赤いエプロンの似合う子で、まだ大学生ではないだろうか。背が高いので、とてもスリムに見える。ニコヤカに話しかけてくれては、時々ルポの裏話などを聞かせてあげると、本当に目を輝かせながら聞いてくれるので嬉しい。彼女にしたいくらいだが、自分の生活を考えると、女性に興味を持っている場合ではない。
かといって、結婚を考えたことが今までにないわけではない。大学を卒業し、最初は出版社に入社したのだが、そこで二年先に入社していた女性と付き合ったことがあった。当時はまだ独立など考えていなかったこともあってか、社内恋愛を危険なことだと思いながら、それでもスリルを感じているという自分の中の矛盾に戸惑っていた。
しかし、彼女にはその矛盾を打ち消すような魅力があった。妖艶さといってもいいかも知れない。
「私、大学の時に一度結婚を考えたの。その人のことが本当に好きで溜まらなかったの」
と言われてから、
――彼女を離したくない――
という思いが急激に大きくなっていった。
だが、なぜ結婚しなかったのか自分でも分からない。彼女への熱が冷めたのには違いないが、冷めた対象が彼女に対してのものなのか、それとも女性全体に対してのものなのかハッキリとしなかった。
――女性全体に対してのもののようにも思うな――
後から考えればそう思えてくる。それからだった、砂原が独立を考えるようになったのは……。
――何もかもが嫌だったのだろうか――
というよりも、女性と付き合うというその時一番幸せの絶頂だと思っていたことを達成し、さらなる欲が出てきたことから狂いが生じてきたようにも思える。たとえが違うかも知れないが、
――好事魔多し――
というではないか。だが、それもここに来るようになってから変わっていった。気持ちに余裕が持てるようになったからだろう。
「仕入れも大変なんでしょうね」
と聞くと、
「ええ、車で二時間かけて仕入れに行ってるんですよ。そんなに遠くまで行かなくてもいいのにとも思うんですけど、あの人も頑固でね。いいところを見つけたらしいんです」
「それはいいじゃないですか」
「面白いことを言ってましたよ、まるでヘビが尻尾から自分を飲み込んでいるように見えるところだなんて言ってましたけど、どういうことなのかしら」
そういう地形なのだろう。言葉で聞いただけではピンと来ないが、湾曲した入り江のようなところなのだろうが、それにしても面白い表現である。これから行こうとしている入り江がきっとそんな感じなのだろうと思うが、もう一つ想像できた。輪のようなものであるが、それが何かはその時には分からなかった。
「マスターってなかなかの詩人なのかも知れないですね」
そういうと奥さんは笑っていたが、その表情にはまんざらでもなさそうな雰囲気が醸し出されていた。
この店に寄るといつも本を読んでいるか、女の子や奥さんと話をしているので、一時間や二時間いることなど当たり前である。それが常連の特権とでもいうべきか、馴染みの店のありがたさは、時間にゆとりを持てるところにある。その日も夕方までに現地に着ければいいと思いながら、先日買って来た本の続きを読んでいた。
本を読むと眠くなるのは砂原だけではないだろう。しかし、歳とともにその傾向が強くなってくる。歳といっても、まだ二十代、まだ十分に若いのだが、二十五歳を超えると老化現象が出てくるというではないか、必要以上に意識しているのかも知れない。
睡魔が襲ってくるのを分かっていて、
――眠ってしまってはいけない――
とすぐに本から目を覚まして眉間を指で押さえることもあったが、そのまま気持ちよさに任せて眠ってしまうことも多い。睡魔が襲ってくると、気がつけばそのまま寝てしまっていることが多いのは、自分の感情に逆らいたくないからだ。無理に逆らうと、あとで頭が痛くなったりすることもある。
眠ってしまうと夢を見る。その時々で違うのだが、夢の内容を覚えているのは不思議だった。どうでもいいような内容はすぐに忘れてしまうが、明らかに起きていく過程の中で忘れるものではない。
普段寝ていて見る夢は、まず間違いなく夢から覚める過程で忘れていくものだ。いや、忘れていくというよりも、記憶の奥に封印されていると言った方が正解だろう。夢は覚えるものではなく、記憶として封印するもので、何かの拍子に思い出すものではないだろうか。
その日の夢は、以前行ったことのある中でも印象に深く残っていた滝の夢だった。
夢を思い出しながら、当時感じたことが入り混じって、リアルな感覚を植えつけられているようだ。
山に囲まれたところにある駅を降りて、その横の道を上がっていくのだが、一気に急な坂になる。それこそ山道を進むがごとくで、車ではとても登れないほどの急な坂である。
歩き始めるとすでに轟音が響いてくるのが分かる。大量の水が重力によって叩きつけられる様を思い浮かべているが、歩いていくうちに涼しさを感じ、出てくるはずの汗も一気に引いてしまっているようだ。
山の中腹までくると、急だった坂道が平坦になってくる。そのまま歩いていくと、次第に視界が悪くなり霧がかかったような感じになるが、それは滝の飛沫による自然現象だ。
風の強さを感じるが、湿気を帯びた強い風が肌にベッタリと纏わりつくようで気持ち悪い。途端に噴出してくる汗、強い風でも払拭することはできない。
まわりは緑で美しいのだろうが、枝葉すべてが滝の力によって左右上下に揺れ、まったく自分の意志がそこには働いていない。すべては滝という自然の驚異になすすべもない。
滝の正面に掛かっているのは真っ赤な橋であった。
――どうやって作ったのだろう――
ここの滝は昨日今日でできたものでないことは誰の目にも明らかで、人がここを知る以前から滝であったに違いない。したがってこの橋は滝を見物するために作られたのだろうが、それにしてもこの自然の驚異の中でよく作れたものだ。一歩間違えれば滝つぼに落ち込んでしまい、こんなところに落ち込んだら二度と再び生きて上がってくることは不可能に違いない。そう考えると恐ろしかった。
その時の橋が、夢として出てきたのは、きっと今から向う雫橋を想像していたからだろう。名前だけを聞くと落ち着いたところに佇んでいる静かな橋を思い浮かべるのに、なぜ滝に掛かった橋を夢に見たのかは不思議だ。橋というイメージであれば他にもいろいろあったはずだ。
たとえば高知のはりまや橋、しかし、あまりにも都会過ぎる。それでは京都の祇園に掛かる橋? それならば分からなくもないが、やはり観光化されたところというイメージが強すぎる。
砂原には夢に対して特別な思いを感じるところがあるので、見た夢に対し、逆らって考えることをしないようにしている。夢を見たことを現実として受け止める方がいいと考えているのだ。
作品名:短編集41(過去作品) 作家名:森本晃次