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ネヴァーランド

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眠りから醒めたばかりの王妃の物憂さを全身に漂わせながらも、大きなその眼は正気づき、周囲と我が身をあらためて検分しているように、せわしなくうごめいていた。
僕は、興奮し始めた。
悪だくみが、やっと、やっと、功を奏すところだ。
どこやらから、かすかな、リズムをとる音響が聴こえてきた。
立ち上がって、ヘレンに歩み寄り、左手を、拒まない、彼女の右手に、拒まない、小指から順に、拒まない、薬指、拒まない、中指、もう指と指の間が開いている、人差し指親指と絡み合わせていった。次に、暖気の降りてくる腋の下をかいくぐらせて、右手の親指の付け根を湿った肩甲骨の間に押し当てた。腹と腹が接触しそうだ。今や、へレンの顔が、僕の顎の、ほんの先にあって、見上げていた。その眼は、爛々と輝いていた。その両眼の瞳に、驚愕と驚喜を必死で押し殺す僕の顔が映っていた。
足音のようなリズムが聞こえてくる。段々と近寄ってくる。しかし、三拍子の足音なんぞはない。ドギーを殺した三本脚の畸形の恐竜ではあるまいし。いやいや、足音ではない。鼓動だ。拍動だ。僕の心臓の音かもしれない。右心房にきつい障害があるかのように一拍目が強い。うんたたたっ、と打っているからだ。
遠くではなく脳の中でワルツが演奏されていた。僕の歓喜が指揮をとって。近寄ってくるのではなく段々大きくなってきたのだ。僕は首を斜め下へ伸ばして、舌の先でヘレンの左の耳たぶを触った。その瞬間、かすかな痙攣を感じた。冷たくて柔らかかった。そこは静かだった。左手の親指を伸ばして、右の掌の付け根を探った。見つけた。ヘレンにも同じリズムがあった。親指が触っているところ。暖かくて柔らかかった。そこは脈打っていた。
ああ、うるわしの、三拍子。
僕は、ヘレンの右足先を左足でつついて、さ、ワルツを踊ろう、ボックスから始めた。ヘレンはすんなりあわせてきた。
るんらっら、るーらーら、るんらっら、るーらーらー、るんらっら、るーらーら、るんらっら、るーらーらー
体の位置を九十度変えれば、部屋全体が九十度逆回転する。近くの壁のクマグスと花々はゆっくりと移動するので詳細に観察できるが、遠くの壁のそれらは急速に視界を走るので形態は崩れ、色は混合する。
らっ、らーら、るんらーららーら、るんらっらっ、らーら、るんらーららーら
ナチュラル、スピン、リヴァースと、ターンを続けていると、近い壁との間の内径と、遠い壁との間の外径を持つ、二種の円運動が、るららららららー、るららららららー、直進する場合の近景と遠景の動きとは逆の効果を視覚にもたらすので、船酔いに似た酩酊感を味わう羽目となった、るらららららるらららららるららららららー
メノトが胡桃油を含ませたスポンジで磨いた床面はきわめて滑らかで、まるで凍った湖の表面のようだった。
吐息のようにヘレンがつぶやいた。
「そうだった、あなただったわ」
らっらっ、るーららららー、るーららららー、るーららららーら、るーららららーら、るーらららるらりらるらるらりらるららっ!
麝香の匂いではない。僕の部屋の冷蔵庫にあった大好物の青カビチーズの匂いが立ち昇ってきた。
ヘレンの腰が抜けた。

102)

僕は、右肘でヘレンの腋の下を支え、左手をすばやく振りほどくと、ヘレンの右上腕を後ろからつかんだ。ゆっくりと腰を下ろさせ、仰向けに寝かせた。大の字の右棒が落ち、左右の跳ねが狭まったかたち。ヘレンの右腕と体側が作る谷間に跪いた。焦点の定まらない眼の上半分を瞼が覆ったのがセサミの合図となって、下唇が落ちて口が半開きになった。荒くて濃い吐息は、次から次へとそこから湧き出て、見えないよだれとなって、顎を通り、首を過ぎ、左右に垂れている両乳房に沿って床に滴った。再びその口を見て、よだれが溢れだす前にふさぎたくなったが、そうするとそれを眺める快楽もなくなるので、ちょっと迷ったが、そうしなかった。同様な選択の場面に、下半身についても、もうすぐ文字通り直面するだろう。今、そちらのほうは、見たら最後、迷うことなく無我夢中のざまをさらすと思うので、冷静な時間をできる限り長引かせるべく、見ないようにしているが。
かつて、青カビチーズをはじめて食べたとき、父に、こんなにおいしいもの、どこでどうやって作るの、と訊ねた。そのうちわかる、とのことだった。こんなところで作っていることも、そのうちわかるに込められていたのだろうか?
ヘレンが、自分の上半身を照らす燐光をまぶしがる風に、顔を向こう側に傾げ、つぶやいた。
「私には私なりの確信があったんだ」
「どんな確信かな。ところで、君は、何故泣いているの?」
顔を傾げる寸前に、光る涙が見えたのだ。
「体育館でのあなたの演説を聴き、祖父や親や従兄弟達との会話を聞いて、思ったことがあったのよ」
涙についての回答はない。
「もうずいぶん前のことだ。何かの思い違いだったと、今は思わないか?」
「そうは思わない」
僕にはその内容が推定できた。見当違いの悲しい幻想だろう。
「僕は特殊な事情で擬似的にエリートになっただけだ。遺伝子は病的な箇所を除いて同じだ。特殊な教育を受けただけだ。この事情は、僕のあずかり知らぬ偶然によって起きたことだ。与えられた初期条件と境界条件だ。誰だってそれぞれ異なる条件を持っている。それをまだ前提にしていては、いつまでたっても、僕は君へ接近できないじゃないか。何も、こういう外部の偶然の条件を一掃して、遺伝子レベルにすべてを還元して、平等を謳おうなどとは言ってはいない。その中間にある、僕たちが引き受けることになったこの時この場の条件に対して、どう対抗し乗り越え身を守って行くか、その姿勢を共同で探ることを通して、僕らは接近できるんだ」
ヘレンがこちらを向いた。濡れた目の焦点がぼくの頭蓋骨内に結ばれた。
「あなたは、単に、教育で作られただけではない。あなたには批判力がある、追求力がある、実行力がある」
「もしあるとしても、それだって教育と訓練の結果にすぎない」
「そうではないと思う」
「そうだと思う。いや、そうだったと思う。教育と訓練はもう脱皮すべき拘束に過ぎないし、もともと、たかのしれたものだったんだよ」
「よく言うわ。まあ、そういう滓が残っていてもしょうがないでしょうが。意識していなければ忘れるはずだわ。もし、いい子にしていれば」
「馬鹿にして」
「だれが、だれを。私が、あなたを? 何言ってんの。繰り返すよ。私には私なりの確信があったんだ。同じ条件でも、誰もがあなたになるわけではない」
「単なる理屈だね」
「聞いてちょうだい。あなたには、無私の精神がある、いつの日か、多くの者が感謝するでしょう。私にはそれがわかる。あの時わかったし、今でもそう思う」
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦