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ネヴァーランド

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僕はそれに応じて振り返る。見当をつけて見上げた位置が少し低くて、とがった顎と長い鼻が焦点の中心だった。ちょっとずれただけなのに、待っていたヘレンの目がそのぶん、より大きくなったように思えた。
「タダヨシ、まだ用事はかたづいていなかったわね」
「御意」
ヘレンは僕から眼を逸らせた。眼を向けた先には、寝室の出口のあたり、ヘレンの腰とベータの垂れ下がった片方の足に半分隠れて、メノトが跪いていた。
「ほら。あなたは部屋でお掃除を続けてちょうだい。耳が聞こえなくなるくらい一所懸命に床を磨いて下さいな」
「はい、水気をよくふき取ってから、二度目は胡桃油で磨きましょう」
メノトは深々と頭を下げ、その姿勢のままゆるゆるあとずさって闇に消えた。
ヘレンは息子の頭頂部を見下ろしたまま黙っている。胸が、抱いたベータと一緒に膨らんだり縮んだりしている。ベータの寝息が聞こえる。かすかにヘレンの息の音も聞こえる。音程は異なるが同調している。さすがに母と子だ。僕はしばらくそれに耳を傾ける。母の呼吸に合わせて呼吸したことがあったかどうか、5カウント間ほど集中して想起を試みた。なかったと思う。カメラのフラッシュにさらされて頭の中が真っ白になった後、僕は母と接触していない。
僕は、今に戻るためのように、ことさら体を前倒しにし、右腕を伸ばして、再びヒマワリの種をつまみあげた。それは、筋張っていて、充分硬い。
立ち上がりながら、「これはなに?」と、ヘレンの鼻の先に近づけて問うた。
「いち」
確信的に答えた。
「違う。ヒマワリの種だ」
ヘレンは怒らなかった。平然としていた。僕はすでに、ヘレンと相対していた。眼は互いに合わせない。
「僕のあとをついて来てごらん」
返事はなかったが、かまわず、部屋の奥の右隅に行った。
コーナーからこれくらい離れていたんだっけ。四つん這いになって、床にヒマワリの種で、線を描いていく。ランニングマシーンの平面図だ。描き始めると、細部が思い出され、コンベアーの縁とサポートとの間の溝に詰まらせたポップコーンなんぞも描き加えたくなった。
その平面図の上で僕は、おおげさに腿上げをしながら後ろに足を蹴って、走っているまねをして見せた。体の軸がどうしても振れた。右足の後遺症が露わだ。
ヘレンは、ベータを抱いたまま、ぼんやり見ているだけで、感想を言わない。
僕は再び四つん這いになって、冷蔵庫とその隣の乾燥食料庫を描く。冷蔵庫のドアも、食料庫の上げ蓋も、それぞれ、その前とその右横に描いた。
取り出してむしゃむしゃ食べるそぶりをした。お下品だが、二、三度ゲップ。ゴミ箱は食べかすを捨てる段になってあわてて描き加えた。
壁に立てかけられていた鏡はどうしようか。
壁から一歩はなれて壁に面して立ち、それから、スミレを押しつぶさないように壁に背をつけて立った。鏡なんだがなあ。君も不思議そうに覗いてから逃げ出したあれだ。
生まれて初めて鏡を見たとき、裏に潜むこびとさんを探そうとして、もぐりこんで、鏡を倒して割ってしまった。怪我をするかもしれない危険性をあえて考慮に入れての父の教育的配慮があったかもしれなかった。朝永という学者は鏡が左右対称ではあるが上下対称ではない理由について考察したそうだ。陸生植物でさえ、もし鏡に映る自分を見たとしたら、不思議に思うだろう。最有力の解答は、重力が垂直に働くので、反転の際の回転軸が垂直になるから。りんごの実が落ちるのを待つまでもなく、自らを鏡の中に見ただけで、重力を発見できたりんごの木もあったはずだ。とっくに発見していたが、我々に教える言葉を持たなかっただけかもしれない。
さて、徐々に、スミレの花が生けられた壁を辿って右下の隅に至った。そこは、洗面所の入り口になる。行き止まりなので、しょうがない、客間には回らず、そこで、歯を磨いたり、歯間ブラシを使ったり、シャワーを浴びたり、便座にしゃがみ込んだりのパントマイムをやって見せた。シャワーを浴びるときにほとんど習慣となっていた自家発電もついなつかしさのあまり真似しそうになった。汗が随分出てきた。
ヘレンは依然として何も言わない。
僕の演技力が至らないのか。
部屋の入り口を通り越して、時計回りに左下の隅に至る。そこが、ベッドの頭の位置だった。僕は、まずベッドの枠を描き、その中で、ねっころがったり、いびきをかいて聴かせたりする。ヘレンは、馬鹿にしたように見下ろしているだけだ。時々、ずり落ちたベータを、膝を曲げてから伸び上がり、抱き直す。ずーごろごろ。容赦ない寝息が聞こえる。
向かい側の壁に接して、机があり、脚立があった。机の上のパソコン。それらの平面図を描きながら、懐かしさのあまり涙が流れそうだった。キーボードは、打ちすぎて磨り減って、何度交換したことか。中腰になって脚立に坐っている姿勢をとり、ピアノを弾くように、空中の見えないキーボードを叩いて見せた。
ヘレンを見ると、興味深げではあるが、不審の念もさらに強まる、といった様子だ。
残りは天井しかない。だが、青空のようだった天井をなんと表現すべきか。僕は天井を仰いで両手を広げて見せた。破れかぶれ、まさにお手上げ、かな。
いや、床が残っていた。机とベッドの間の床だ。ヘレンがあの時とった姿勢を、僕は、破廉恥にも記憶にある限り忠実にやってのけた。仰向けになって体を左右にねじりながら足をこぐ。腹ばいになって両手を前に伸ばして尻を高々と突き出す。官能の薬味が効いて、あの夜の僕の部屋はほとんどよみがえったかに思えた。もうこれ以上は出来ない。
ねえ、ヘレン、これでも思い出さないかい?
おや、ヘレンがいない。いつの間にやらいなくなっていた。呆れて逃げてしまったのか?
奥の部屋で、ヘレンとメノトが話しているのが聞こえた。始めはひそひそ、段々普通に、たちまちフォルティッシモに。
「場所は、十三夜の谷、モーのお気に入りのリゾート、あそこにもスミレがいっぱい萌えているわ。ベータも喜びます」
「随分遠いところですね。この体ではしんどいのですが。まして、ベータ様を抱いてなんて」
「暇なクロードはいくらでもいます。一緒に行けばいいのです。アナックにお願いしてね」
「どうしても、でございますか」
「モーが帰ってくるまでには、スミレはすべて萎れてしまいます。あなたたちがスミレをたくさん摘んでくれば、根ごと抜いてくるのもいいわね、モーも、さぞや喜ぶことでしょう」
「さようでございますか?」
「モーのことを一番よく知っているのは私ですよ」
「失礼をばいたしました」
その後、急に話し声が低くなり、静まった。鈍い物音がした。
奥の部屋から、熟睡している赤ん坊を抱えてメノトが出て来た。部屋の真ん中で座り込んでいる僕とは眼を合わせない。ただし、首を横に振り続けていた。
そのまた後の時間は長く、このまま場面が凍りついてしまうかと思うほどだった。
だから、奥の部屋から、ヘレンが現われたとき、停止していた心臓の心室が再び動き始めたようだった。この部屋という心室も、僕の心室も。
奥の部屋の暗闇を背景に、居間の燐光を浴びてそそり立つヘレンの美しさといったらなかった。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦