ネヴァーランド
かつて見た夢の中で、この子は大声で泣いていた。闇の中に、この子と僕しかいなかった。うろたえた。どうしていいかわからなかった。母については、わずかで断片的な声の記憶しか残っていない。声量豊かな、若い女の声だ。父とは、会話、議論、質疑応答等のかたちで日常的に交流はあった。僕の声と区別がつかないほどよく似た声だった。だが姿を見たことがない。赤ん坊を抱き上げて揺すぶりながら、そんな両親を持っていた僕は、大急ぎで幻想の親子関係をでっち上げた。夢から醒めるほどの激しい、しかし観察に基づく見よう見まねにすぎない優しさをこめて、父親役を演じた。こんにちは、あっかちゃんー、わたしがぱっぱーよっ。はい、もうだいじょうぶ。よしよしよし、いい子、いい子。これからは、パパとママとで暮らそうねー。酔って醜悪な自分や過去の無思慮な自分を思い返すときのように、夢の中での滑稽な自分を思い返すと恥ずかしさで泥まみれになる。
時々、ベータの体臭が漂ってくる。はるかな昔この乳臭さをかいだ。ドギーの、僕自身の。僕は、赤ん坊に向かってドギーと言いそうになった。ドギーと僕は生まれた時からの幼馴染だった。兄弟だったかもしれない。双子だったかもしれない。鏡に映った僕自身、僕という同一者であったかもしれない、はは。僕がどんな錯覚に陥っていたのか、あるいは、親達が何をしたのか知れやしない。
幼年時の記憶にむせそうな僕は、さーて、とわざとらしく気合を入れると、えっ?というヘレンの声をあとに、四つん這いになってドギー、ではなくて、ベータを追った。途中で気がついたベータは、奇声を上げて逃げる。何度かジグザグに方向を変えて走りまわった後に、急に止まった。僕はその体の上を、触らないように踏まないように気をつけながら通過した。体をねじりながら腰を下ろした。ベータはまた両脚をつっぱらせてそのあいだからヘレンを見ようとしていた。さっきと同様に横に倒れた。めげずに繰り返す。やっとわかった。でんぐりがえりをしたいのだ。僕は、近寄っていくと、ベータの後頭部を押さえながら寝転がり、逆さになった赤い顔に向かって言った。へそを見なさい。ああ、ペニスじゃない。あいている右手でへそを押さえた。腹の皺に埋まっているので今まで気づかなかったがでべそだった。向こう側に倒れた。起き上がってまた四つん這いになったベータの肩をつついた。しょうがない。見てなさい。久しぶりだ。やって見せた。自分のペニスを見てしまった。もう一度ベータの後頭部を押さえ、下腹を持ち上げ、でんぐりかえした。痛くなかったか? ベータは両手両脚を空にばたつかせながら、きゃきゃきゃきゃきゃ、笑った。背後からヘレンの笑い声も聞こえていたが、ふり向かない。何を笑っているのかはどうでもよかった。ただ、彼女の寛容な気持ちがしばらくは変わらないことを祈るばかりだ。視野の隅ではメノトが形相ものすごく僕をにらんでいた。
ベータは、笑い止むと、僕を一心に見上げている。何かまたしてくれと言っているのか。
さっそく言葉を教えることにした。両手を引っ張って坐らせる。首が揺らぐ。僕はその横に並んで胡坐をかいた。対面すると僕の表情やしぐさに気をとられて耳がお留守になってしまうからだ。
父が僕に言葉を教えた時のことを思いだす。
父の声が初めて部屋に響き、パソコンの画面に何かが踊り始めたとき、恐怖のあまり脚立から転がり落ちそうになった。
「初めに言葉がある。言葉は私とともにある。私が言葉だ」
ナレーションと文字が同調していた。僕は、話し言葉と書き言葉を同時に教えられることになった。
僕は父のようにはしない。僕なりのやり方をする。初めに言葉があったとは、もう思っていないからだ。
では何があったのか。僕の体験によれば、映像があった。
混沌のイメージが最初にあった。ぼんやりと光る赤い闇だ。もし、瞼を開き、充分発育した眼で見たならば、真っ赤であると予想されるような闇だ。実は、閉じた瞼と羊水を通して見る、毛細血管の張り巡らされた子宮の内壁だった。その後、光あれ、とは誰も言わなかったのに、光に包まれた。実は、たくさんのカメラのフラッシュだった。これらの視覚映像が周辺の記憶をよみがえらせる。寝ぼけたままで安楽をほしいままにしていた僕が、一転、苦しみとともに悟ったのは、自分が溺れかけていることだった。身を震わせて吐いたあとの空洞に、風が入ってきた。体の表面にも風が這っているのが感じられた。内からも外からも風に包まれた。ナントイフホガラカサ……
右膝がむず痒い。風ではなくベータの左手が、僕の膝を揺すっている。さっさと始めろ、と要求されている気がした。さて、どうしよう。
僕らの前にはたくさんのヒマワリの種が散らばっていた。それらはモノとしては分節化がなされているが、この距離からは相互の差異は見いだされない。僕は一粒摘み上げると、ベータの鼻先に突きつけた。ベータの目が寄った。
「いち」
つかもうとして手が伸びかけてきたとき、元あったあたりに投げて戻した。散乱するヒマワリの種にまじって、それはもうどこに行ったかわからない。人差し指を伸ばし、ぐるぐる回してあたりを指しながら言った。
「いっぱい」
ベータは身を乗り出して、まぎれた種を探し始めた。横からこっそる見ると、見開いた目がせわしなく動いていた。
Φを0、{Φ}を1、{Φ、{Φ}}を2、{Φ、{Φ}、{Φ、{Φ}}}を3、……、と称することにすれば、零を含んだ自然数を構成できるが、歴史的には、順序が逆だっただろう。多があるから一に気づいたのだろう。零の発見は、さらに時代を下ってからのことだ。存在が先行していて、無はのちに発見されたことが、無の虚構性を意味するわけではないが。
一という言いかたには意味がない。一か、ONEか、UNUMかという差異は、示される概念が同一である以上、たいした問題ではない。摘み上げて、何らかの音を声に出すことこそが意味ある行為だったのだ。ところが、それもまた恣意的であるかのようだが、本当にそうだろうか? 自分もまたベータと同じ状況にあると想像してみた。視覚に限らず、感覚器官はのっぺらぼうを知覚出来ない。世界が子宮内壁のようにのっぺらぼうのままならば感覚器官は発生しない。例えば視野には、運動とともに万華鏡のように変化する無意味なアラベスクがすでに拡がっているだろう。やがて立体視が可能になるにともなって、アラベスクも立体化する。焦点と周辺の分離が生じ、焦点がさ迷い始めるが、動きはランダムで中立的だ。やがてこの動きにアラベスクの歪みに応じて生理的反応としての偏差が生じる。その歪みの典型は、アラベスク一単位内の連続変化と複数のアラベスク断片らの同型性だ。むしろ、無意味で雑多なアラベスクの中の結晶というほうがふさわしい。では、次に何が起きるか。この事態を前にして我々は何をするか。



