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ネヴァーランド

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ヘレンは見たくないような素振りをした。ゆっくりと玄関のほうを向きながら、眼だけが僕を見続ける。その流し目は目じりではじかれて、すぐさま正面を見た。僕は顎でベータの頭を押さえた。ベータは、下からリズミカルに突き上げてきた。排尿を終えて急に気分が変わったようだ。尿が母親に届いたのでひとまず安心したのか。歌さえ歌っていた。それとも言葉なのか。ただし、言葉だとすると、気になる内容だ。あくあくあーくあく。あーくあく。悪、と聞こえる。
「ヘレン!」
ヘレンが憤然としてこちらに向き直った。
ベータの額の皺を人差し指で指し、自分のそこを指し、またベータに戻した。生まれた時から僕の額に刻まれていて、成長に伴って深まり伸びてきた皺。ほとんど僕のシンボルだ。仰向けになって小川を流れて行く自分が思い浮かぶ。見開いた際に出来た皺に紋黄蝶が足をとられ、やむなく足を切って逃げたものの、バランスを失い、空中でいろはを舞ったっけ。
どんぐり眼が、壁から壁へ、部屋にかかったアーチ橋を往ったり来たりするように、うごめいた。やがて止まると、僕、ベータ、また僕、を凝視した。
あくあくあーくあく。あーくあく。
ベータを返してくれというように、両手を伸ばしながら、言った。
「おっしゃりたいことはわかりました。けれど、モーの子だわ」

99)

「遺伝子を調べればわかるだろう。今の状況ではできないが。そういう意味かな? 」
ベータは、僕に持ち上げられて、くっくっく、嬉しそうだ。
「ねえ、あなた、そんな言い方はやめてくださらない?」
腋の下をつかんでいる手の甲をヘレンの掌が包む。右、左と、僕は手を抜く。
「言い方の問題ではないと思うよ」
抱かれたベータは、右手を伸ばしてそれをつかむ。
「言い方の問題です。親だの子だのは、言い方の問題にすぎません」
「えっ、そんな? そんな言い方はないだろうよ」
乳首が大きいので、ベータは大口を開ける。顎が外れそう。
ヘレンは、僕に授乳行動を見られるのに、今更ながら抵抗感があるらしい。そんな場面は、今までいくらもあったのだけれども、躊躇する様子にいまだ変化はない。だが、気持ちとは別に、発言は進む。
「あのね、言い方の問題はどうでもいいの。言い方が問題なの。わかる?」
それは、無理するとわかる…と思う。二つのレベルが今並んでいて、一瞬僕が混同したことはわかった。しかし、ヘレンは簡潔すぎるな。少々意地悪だし。
「では、僕とベータの父子関係は、モーゼとベータの関係と、どんなふうにして軽重の差がつくのだろう。どちらも言い方の問題だとすれば」
吸引の音が聞こえる。ベータを見ると、体全体がポンプとなって脈動していた。
「何故わざわざ訊くのかな。答えは、だれだってわかるでしょうに。現実が優先します。残念ながら、今のところ、タダヨシはとるに足りない存在だわね」
確かにそうだろうが、少々腹が立ったので言ってしまった。
「君には過去がないから、そう言うしかないんだ」
ベータが少し乳を吐いた。ごっぼっ。ヘレンは、下を見て、胸を手の甲でぬぐってから、ベータの肩甲骨の間をその手の手首で叩いた。小指と人差し指が美しく外に流れて、動脈が触れるあたりで、強く叩いたのだ。今度は上手なゲップの音が聞こえた。
苛立つように頭を左右に揺すり上げて、僕を見た。どうも、あったまにきているらしい。
「意味がわからない。馬鹿にしないで。そういう難癖は許さないわ。私が過去に何をしたって言うの。そりゃ、憶えてないわよ。ああ、よかった。けど、今、私がいるということは、私が無罪だった証拠でしょ? 有罪だったなら死んでいたでしょうよ。罪とはそういうものでしょ? でしょ? ほらね。だから、現存無罪」
退嬰極まりない内容を、なんと自信満々に堂々と発言することか。聞きながら、ついちょいとうなずいてしまったじゃないか。この女が、あの少女の成長の成果、あるいは、なれの果てだとは、どちらにしても想像を絶する。僕は、感動と落胆のあまり、しばし絶句したままだった。
「私だけのことを言ったんじゃない。現状無罪だわよ」
「この世界の悲惨と悲劇が無罪か?」
「そうでしょうに。あたりまえでしょうに。この現状には責任者がいないもの。そもそも、悲惨とか悲劇とか、言わないで。あなた、何様のつもりでいるの。ああ、失礼、新しい言葉を使うと興奮するわ。責任という言葉はタダヨシがはやらせたんじゃなかったっけ?」
施設ニッポンで彼らにはタブーとされていた言葉を僕が何気なく口走ると、あるいは意識的に口にすると、それが広まることが何度もあった。言語による武装路線に突き進んで止むことない彼らは喜んだ。僕を面白がった。言った僕は、その意味がどんどん変わっていくのに驚くばかり。そんなことをした責任の重さにいまさらながら驚くばかりだ。
ベータの寝息が聞こえ始めた。ヘレンは息子を、投げ出した右足の傍らにそっと置いた。身をかがめて何かを息声でささやいている。耳を澄ますと、眠れ、眠れ、いとしい坊やよ、だと。それは、母の胎内にいたときの僕が、外から内から、母にささやかれて聞いた歌の詞ではなかったっけ? 母は、あの時もう僕を男子であるとわかっていたんだなあ。

100)

眠れ、眠れ、いとしい坊やよ、
夢の中で、お遊びなさい、
雲雀といっしょに空に昇り、鯨といっしょに海に潜り、
夢の中で、お遊びなさい、
朝の光と母の乳房が、目覚めるあなたを迎えるまでは……
ところがベータ、子守唄の効果なく、たちまち目を覚ましてしまった。
再びヘレンから離れて遊びだす。明らかに興奮している。
赤ん坊をつくづく観察できる時間が持てた。こんなに近くで、こんなに長い間、観察したことはなかった。おや、不思議。時間が経つにつれてベータが、ヘレンそっくりから僕そっくりへと、みるみる変化していくではないか。今まで長らく続いていた錯視が融けていった。なるほど、普段は、ヘレンに抱かれたベータしか見たことがなかったから、両者の顔が常に接近していた。だから、類似部分がそうでない部分を圧倒し、覆っていたのだ。空咳する、爪を噛む、舌打ちする、額にしわをよせる。今まで見えたり聞こえたりしていたはずなのに意識しなかったことが、次々に露わになっていった。姿かたちだけでなく癖までが、鏡に映る自分を見るようで、もはや疑いはありえなかった。たとえ反動としての新たな錯視であるとしても、それにまったく根拠がないわけではない。僕は、久しぶりに再会した我が子のように、この新たな見え方を、喜んで迎え入れた。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦