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ネヴァーランド

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どのように父が自分を教育したかを、僕は覚えている。その方法を、伝えておきたいんだ。優れた部分もそうでない部分もある。どの部分がどうなのか。その教育の結果である僕の現状を見て、どちらであるかを判定するしかないな。しかし、少なくとも言語教育については長所と思われる点があるんだ。それはね、僕が、記憶に残る言語を使えている、ってことからわかる。僕は、今のところは健忘症に罹ってはいない。健忘症の意味は知っているね。大変失礼だが、僕から見ると、君らは重症の健忘症に罹っている。それどころか、記憶消去装置が脳に組み込まれているかのようだよ。君たちにとっては至極当然の状態であり、根拠のあることであり、僕が不当な言いがかりをつけていると思うだろう。だがね、健忘症がどれだけ不便か、どれだけ不幸をもたらすか。君は自分の子供であるアルファがどうなったかさえわからないじゃないか(そう言いながら、耳鳴りがするほど緊張した。ヘレンが、首を左右に振りながら、不便でも不幸でもないわ、と言ったらどうしよう)。健忘症の原因のひとつとして、言語が挙げられるだろう(大丈夫だった。壁に沿って這い回るベータを目で追っているだけだ)。 君たちの使う言語と僕の使う言語は実は同じなんだ。言語教育を施された際の方法やその基になる理念が君たちと僕とで異なっていたらしい。僕は、ここに来たころは、君たちがあまり言語に依拠しないで生活していると思っていた。だがね、君たちの言語を学ぶ必要性に迫られ、意識的に学習し、段々と理解できるようになるにつれて、想像さえしなかったことが見えてきたんだ。全く逆だったんだね。これには驚いたよ。君たちが森羅万象を言語化してとらえようとしていたとはね。君たちは言語に依拠しすぎている。施設ニッポンの近代的制約を脱したのだから、自然の中で、自然に則って生活してもよかったんだ。ところがそういう道をとらなかった、またはとれなかった。神や仏を持たないのでそれらに頼れないし、応用科学あるいは科学技術で武装も出来ないので、ひたすら言語で武装して、まことに人工的な世界を作り上げた。君たちは言語化に耽った。散文化で留まらず、韻文化に突き進み、挙句の果てには、日常全般を、詩やオペラと化してしまった。悪く言えば冗談と化してしまった。モーゼはモーゼであるに加えて、最も人気のある歌手でもあり、我らがバリトンと賞せられているじゃないか。(モーゼは唄うように言ったものだ、「冗談、冗談。みんな冗談ね」)僕はそういう耽溺に引きずり込まれないようにと、常に警戒を怠っていないつもりだ。君たちは耽り戯れるあまりに、脳容量という限界をきわめて切実に受けとめざるを得なくなり、言語化したものを、代謝のために、次から次へと破棄せざるを得なくなったんだ。幸いにも、破棄するために言語化したかと疑い得るほどに、言語化された後の森羅万象は、破棄しやすかった。破棄しても平気だった。男たちが、帝国の代謝のために、次から次へと簡単に死んで行くのに似ているね。欠落を過剰意識した補償作用であるかのように、恐怖と死からの唯一の逃げ道であるかのように、言語化が定方向へと暴走したんだ。その結果、君たちは言語に関わる重い病に見舞われたんだ。眼を患う者は少なく視るが、耳を患う者は多く聴く。言語脳を患う者は、多く語り過ぎる。(一瞬の間、強い恐怖感、大きな錯覚に陥っているという恐怖感に襲われた。しかし、もう次の言葉が出てしまった)少なくとも子どもには、もっとつましい言語を学ばせたほうがいいんじゃないのか。余計なお世話だとお怒りかもしれないが、カエサルのものはカエサルに返せ、非言語領域のものは非言語領域に返せ……
メノトが、玄関から入ってきた。例の容器を運んできた。両手で奉げ持っていた。ヘレンと僕の間に置くと、二歩下がって待機する。空になるまで待っているつもりだ。
果実酒に漬したマンゴスチンが入っている。モーゼの学習が終わるといつも出てくるごちそうだが、甘すぎて大して食べられない。食べ終わったら帰れ、という意味がこもっている。わざと一、二切れ残して、授業後の談笑を長引かせると、メノトがにらむので、メノトの込めた意味であることは明らかだ。
マンゴスチンがヘレンの好物であるのを僕は以前から知っていたので、頂きますと言って、一切れつまんで口に入れると、容器をヘレンのほうに押した。噛みしめたマンゴスチンは甘く酸っぱい。今回は果実酒そのものもマンゴスチンを発酵させたものだった。
話を再開する。もはやちっとも簡潔ではない。
ヘレンは、ゆっくりと、小さな口に押し込むようにして果肉を入れる。その度に口の端を指で拭う。眼はベータから離さないが、耳はこちらの話を聞き逃さない。時々首を縦に振ったり横に振ったりすることからそれとわかる。今のところ、簡潔ではないからと、非難してきそうには見えない。
話しながら、突っ立っているメノトの、太い足首を時々見た。メノトとの間に無言の押し問答があった。むずがっているのはメノトであると知れた。痺れを切らしたメノトは奥の部屋に戻った。悪だくみはとうにばれているようだ。
時々ヘレンから眼を離し、ベータを観察する。表面的には、色、姿、かたち、声、どれもヘレンに極めて似ていて、モーゼ、あるいは僕、あるいは第三の男の影響を見出しかねる。表情やしぐさは、どうだろう。それらはほぼ獲得形質だからあてにならないが。体の部分部分を、危うく話がしどろもどろになりかけるほど丹念に見ていく……
あっ、と声を出しそうになった。ヘレンに向けての長口舌は、宙に打った句点の所で止まったままになった。見つけたぞ。
這っていって、もがくベータの腋の下に両手を差し込んで吊り上げると、あーだあーだ、席に戻り、あーだ、胡坐をかいた膝の上で抱いて、背を丸め、頬と頬をくっつけた。あーだ、乳臭い。ヘレンは、「何してらっしゃるの」、腰を上げた。容器の上空を上半身が迫ってきた。僕は左手で押しとどめた。手のひらが胸に当たってしまった。ヘレンは飛びのいた。僕は、おっと失礼、と言いながら、瞼を吊り上げ、頭皮を前へずらし、額を狭めて皺を目立たせた。一緒に耳も動いてしまった。
ベータは見逃さず、ごーーっ、唸ってから僕の上半身に這い登り、首を傾けると、耳殻を噛んだ。加減がない。かすかに唸り声が聞こえた。僕も我慢するから、君もしばらく我慢してくれ。
「ヘレン、よく見て」
ベータは、不味かったのか、すぐに耳を吐き出すと、ヘレンのほうに向き直り、僕の太股に腰を下ろした。まーまと言いながらおしっこをした。発射方向は仰角30度ほどで、僕の向う脛と容器に二股に分かれた直線を描いて伸び、最後は再び腰を上げようとしていたヘレンの膝の辺りにかかった。
ヘレンは動じない。よくひっかけられているのだろう。あるいは、何かほかのことに、ほかのところに、気をとられているのか。
「ヘレン、よく見て」
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦