ネヴァーランド
「子ども? どの子のこと?」
「その子のことだよ。君の子ども」
ヘレンが眼を下に向けたので、僕もまた眠りかけている赤ん坊を見た。その子の名前を知らない。一般に家族内では、子どもには、生まれた順に番号や記号をつけられ、それらは名前の代わりとされる。いや、名前となる。1,2,3、とか、い、ろ、は、とか。ある程度歳がいき、他の家族や小集団と交流するようになると、名前を持つようになるが、つけ方は当然恣意的だ。安直でさえある。例えば、その時雷がなったら、カラカリカリ、とでもする。恒久的なものでもない。極端な場合、モーゼが帰還兵士たちを胸に抱き、トヤト、ウコニ、モコニ、よくやったと言ってねぎらったとする。兵士はその名前を自分の名前だと思い込む。モーゼが離れると、もうその名で呼ぶ者はいないから、たちまちその名前は消える。自分の名前が通用していた関係性が消えると、名前も消える。別の集団に参入すれば別の名前が発生する。当人は消えた名前を覚えていない。かつての自分が記憶から消えるからだ。当人がその場にい続けても、常に周りの者たちの口に上らなかったり反復利用されなかったりしたならば、名前は消えていく。一般に固有名詞が消えて行く。自分の謂わば前世が何であったのか、ほとんどの者がわからなくなる。歌詞は例外的な存在だ。歌詞が残っているのは、多くの者に繰り返して唄われ続けてきたからだ。神話や伝説のないこの帝国では、歌詞がそれらの代わりになっている。
モーゼは、元は、コーテーと呼ばれていた。今でもそう呼ぶ者がいる。しかし、僕が、面と向かってモーゼと呼んだときに、モーゼはむしろ面白がった。以来、モーゼという呼称が、広まった。ヘレンのここでの呼び名は、おまえ、だった。ヘレンはモーゼ以外の者にもそう呼ばれていたが、意に介していないように見えた。僕は、暫くの間我慢していたが、ある時、畏れながら、とモーゼに直訴した。チューグー様をおまえ呼ばわりするとは、ムキョーヨー極まりない。それにひきかえ、ヘレンという名はいかに素晴らしいことか。トロイのパリスを虜にした絶世の美女がヘレンだ。結局モーゼは納得したが、時々今でも、おまえ、が出る。聞いていて、せつない。
さて、赤ん坊はヘレンにとっては恐らく最初の子どもだろうから、1、や、い、という名なのだろう。やや抵抗があるが、訊いた方が早い。
「ええと、何ちゃんだったっけ」
「ベータ」
ん? アルファは、どうした?
「アルファちゃんだと思っていたよ」
「アルファではない。アルファはいない」
「……?」
「知らない。何故いないかは知らない」
健忘症のひとつの実例ではあるが、どぎついな。
「君の子どもだった、失礼、子どもだろうに」
他人事ではないから、つい余計なことを言ってしまった。
「そうだったのでしょうね」
ヘレンは平然と言い放った。しかも、だった、と言った。アルファが僕の子どもであり、しかも、死んだという可能性が出てきた。だが、兄弟が生まれるほどにあれから時間が経っただろうか? 双子の片割れである可能性もある。ピンク色のアルファとベータの様子が思い浮かんでしまう。喉のあたりで笑いながら、じゃれ、からまり、ころがったり、あるいは、仰向けに並んで、大声上げて泣きながら、出生の理不尽を訴えたり。ドギーと僕もそうしていたかな? だが、アルファがだれで、どうなったかという詮索は少なくとも今はやめておこう。あくまで冷静を保ちたいからだ。
「ベータちゃんの教育に、いくらか手伝いができると思うんだが」
「ニンテンドーを教えるのね」
「ちがう」
子どもがゲーム感覚で使ったりしたら、大変なことになる。
「じゃ、なにを」
「うーん、一般教養」
どうも、いい言葉ではない。自分の教養が、父によってコントロールされ、検閲された、極めて限定的なものであるのを意識して、冷たく汗ばむ。それは、一般的ではなく、そもそも教養とはいえない。帝国内には一般教養があるとしても、それに最も疎い者は自分だろう。いずれにしても僕が一般教養を口にするのはおこがましい。
「なんのことでしょう」
そのとおりだ。そもそも一般教養とは何のことだったのだろう。うさんくさいが、全くの空疎だったとも思えない。例えば、最低限、
「例えば、最低限、言葉を教える」
モニターのイラストと天井から降ってくる父の声に促されて言葉を覚えた小児の自分を、ベータと重ね合わせる。
「おやまあ、あなたのひどい訛りがベータにうつってしまうわ」
屈辱や羞恥は感じなかった。僕の言葉こそがひどく訛っていると、近頃自覚し始めているので。
赤ん坊が重そうだった。坐ったほうがいい。もう一度壁を見る。それに寄りかかってモーゼは学習する。壁際の床が少し凹んでいて、モーゼのでかいケツをなぞっている。そこを僕は指差す。
「坐って話そう」
ヘレンは見向きもしない。
「私に話すべきことはない。あなたは何を話したいの」
「僕がなぜ君の子の教育に介入するかを」
「私を説得するつもりなのね。無駄だと思う。私はあなたがモーにニンテンドーを教えていることと、魔法使いといわれていることを知っているだけ。どうも、この二つにはなにか関係があるらしいけど。それ以外には知らない。私はあなたのことをよく知らないの」
「ほぼ毎日顔を会わせているでしょうに」
「だからといってあなたを知ったことにはならない。私は推察を好みません」
「戦勝祝賀会が続けざまに催されていたころにも、何度か会ったんだが。酔っぱらってて、記憶が定かではないけれど、どこかで君にお酌されたと思うよ。僕の言動を、君は観察していたはずだ。酔っ払いは本音を洩らすらしいじゃないか」
僕の差し出した容器に、心配そうに別の容器から果実酒を注いでくれた。どちらも、施設ニッポンにあった、黄土色に変色したプラスチック製の容器だ。焼印代わりに梶田化学工業株式会社と底に打ち込まれているやつ。施設ニッポンの、汚いアパートの一室が、僕の脳裏に蘇った。男たちに混じって呑んだくれている僕に、パンチの入ったボールをやはり心配そうに差し出した少女がヘレンだった。
「そうだったかもしれないけれど、定かでないどころか、全く憶えてないの。とにかく、よく知らない方に、ベータの教育を任せるわけにはいかないわ」
くそっ、よく知らない方か。いたたまれなさを抑制するために努力を払ったものの、失敗した。
「僕の顔と体をよく見てごらん。あのころと比べると、頬はこけてしまった。体はやや大きくなったけれど。よく見て」
もう、怯まずに、ヘレンの眼を見た。天啓のように下った悪だくみが見ていた。
ヘレンは、鼻に劣らず声も大きい。
「さっきから見ています!」
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言って、ヘレンは、ため息を、二、三回ついた。それぞれが、長い余韻を漂よわせる息もれだった。見ていると言いながら、顔を徐々にそむけていった。だが僕を流し目で見ている。僕がさっきから見られている。ちらちら見られている。



