ネヴァーランド
かつて、崩れた土塀の隙間から垣間見たヘレンは、赤ん坊を抱いて横たわり、物憂げに乳を吸わせていた。土塀の隙間は今もわざと修理されていない。渋い古代ムラサキ色の傘をもち、ほぼ同じ色の光を発するきのこが土塀の下辺を飾っている。
部屋の中を隙間から窺う。クマグス粘菌によって内側から覆われているので、部屋は、じわりうごめく内臓器官のようで、入れ入れと手招きしているふうだが、つと横から現われて視野のほとんどをふさいでしまった者がいる。女モーゼと言うにふさわしい、巨大な中年のシスターだ。僕を待っていたのだ。
「モーはいないよ」
玄関口に立ちふさがってメノトが言ってのけた。
「…………」
「モー は い ない よ」
メノトが殊更ゆっくりと繰り返したのは、僕が聞きとれなかったと思ったからだ。いないと聞いた僕はたちまちある妄想にとらえられ、多分視点が宙を漂っていたはずだから、そう思ったのも無理はない。
メノトは、僕が初めてここに連れられてきた時、モーゼやブラザーとしゃべるのを聞いていて、僕に聴覚障害か言語障害があると思ったようで、以後その観念を変えていない。僕は今や、どこがなぜ訛りだと思っていたか思い出せないほど充分に彼女らの言葉を理解できるようになっている。聞き取れないことはまずない。男たちの言葉はまだやや苦手だが。
「なぜいない?」
「行幸だよ」
実は、満腹ツアーであることを僕は知っている。早くもサボり始めたか。
「では、ちゅーぐーヘレンはいらっしゃるか」
メノトは返事をしないが、ヘレンと赤ん坊の、ともにはしゃいだ声は、さっきから聞こえていた。
僕は土塀を巡って玄関の前に立ち、メノトを見上げた。
「ちゅーぐーヘレンと少しだけ話をしたい」
メノトは、悲しそうに僕を見下ろし、わずかに膝を折って体をねじると、立ち上がりざまに逆向きに回転して後ろを向いた。玄関口の縦の辺を肘と腹で擦ったので、土ぼこりがたなびくこととなった。それが晴れた時には、メノトはもう奥へ消えていた。土塀の崩れとメノトとのあいだに、何か関係があるかもしれない。
僕は客間に入った。客間の奥に居間があり、そのまた奥に寝室がある。帝国全体を通じて、個別の住居については、一部屋の広さが同じだ。施設ニッポンにあった集合住宅や僕の個室とも同じだ。同じである理由はわからない。
居間までしか入ったことはない。客間か居間でモーゼは僕と一緒に学習する。
寝室から遠い声が聞こえ、やがて赤ん坊を抱いたヘレンが、メノトを従えて居間に現われた。
太ってはいないが堅肉の、均整のとれた姿であることが、背景と比較してつくづくよくわかる。
「おはよう、タダヨシ」
「おはよう、ヘレン」
徐々にヘレンが近づいてきた。眼窩からころげ落ちそうなくらい大きな、黒く燃える眼が僕を見つめている。凝視する力がきわめて強いので、僕は今日もまたややすくむ。めぢからの正体は、躁状態にある理性なのか、抑制された狂気なのか。
じたばたする赤ん坊には眼を向けず、右手のブラインドタッチだけで相手をしている。視野の真ん中を僕の上半身が占めているはずだ。視野の下の中央で鼻が邪魔をして僕の下半身を見えなくしているはず、は、まさかないけれど、大きな鼻ではある。口だけが小さいのは顎がとがっているせいだろう。
異民族と見紛いかねないエキゾチックな容貌であるが、何度見ても相変わらず美しい。
「何のお話?」
「ひとつ、提案があるんだ」
後ろに広がっている褐色の影が、かすかに揺らめく。僕に天啓のように下った悪だくみを、早くも察したかのようだった。
一方、ヘレン、少しもさわがず、すらり、立ったまま、小首を傾げて言うことには、
「はて、どんな?」
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ヘレンの直視を避けるために、気になるものを見つけたのでちょっと待っててと言ったつもりで、まず首を回していき、あとから体をつけていって、右手の壁に向かい合った。実際は、かなり強い匂いに惹かれたのだった。葉を毟られた茎の先についたスミレの花が、粘菌に切れ目を入れて作ったポケットに差し込んであった。ポケットは、壁のあちらこちらにあり、花瓶の役割を果たしている。ただし、生きている花瓶なので、時々活けてある花を絞め殺す。
モーゼは、頻繁に出かける散歩の際に、花を採集してくる。散歩のコースは決まっていない。随行するハットリが、“旬”の花のありかをその時々に耳打ちする。
スミレの花を、跳び跳びに、目で追っていった。結局、壁の上のほう、頭の高さから天井近くにかけて、合計百個ほども活けられていた。
腹の膨れ上がったミツバチは花から花へと飛び交い、肥大漢モーゼは汗をはね散らかしながら、駆けてはしゃがんで摘み、駆けてはしゃがんで摘んだことだろう。
スミレたちはついさっき摘まれたのだろう。スミレの場合、花茎が花の根元に上から付くので、もともと首が垂れている。だから、姿勢だけで、生きがいいか悪いかは、判定できない。花弁を見ればわかる。目の前の花弁は皆、表皮に皺がなく、青紫の色鮮やか、下からの風に煽られているかのようにやや反り返りながら、五方向に突き出ていた。実際、一輪だけだが、仮想の風に乗って首を振っていた。雫に濡れているものもあった。どれもが、訶っ!、と花開いて、僕を見下ろしていた。
行幸するにもかかわらず、何故ついさっき摘んだのか。帰ってきたときには萎んでいるだろう。帰ってきてから摘めばよかろうに。ということは、行幸は、花を活けた後に、急に決まったのだ。
行幸の目的を憶測してもしょうがない。いつもの満腹ツアーではないようだが。
モーゼが時間をかけて鑑賞するはずだった装い新たな壁に向かって、こういう素振りはかつてしたことがないなあと意識しつつ、両手をそろそろと突き出していき、伸ばしきったところで言った。
「今日は一段と綺麗だね」
磁界の乱れのようなものを左体側に感じた。しまった。緊張しているぞ。あわててヘレンのほうに向き直った。宙に浮いた手のおさめように困った。しょうがないので組んだ。
「いい匂いもするし」
あの時は麝香の匂いが漂ったものだ。……ますます状況は悪化していないか?
「提案と、どんな関係があるの?」
白目がほとんどない大きな眼が睨んでいる。半睡状態の赤ん坊は、時々足で空を蹴りながら、左手を上に伸ばす。なかなかとどかない。ヘレンの右手がそれを包み、揉みながら円を描く。つかませないようにしている。
メノトの姿はない。来客の際や学習中は、奥の部屋で待機している。音を立ててはいけないことになっている。ところが、隣の居間から、床をスポンジで拭く音が聞こえてくる。ここにいるよというように。
だが、とにかくも、一つの部屋にヘレンと僕しかいない状況となった。施設ニッポンの僕の部屋で一回目、土塀の隙間からヘレンを見て乱入したときで二回目、今回で三回目となる。
……いかん、何か、質問をされている最中だった。
「失礼。提案とは全く関係ない。ちょっと気をとられただけだ」
ヘレンの不審そうな表情は晴れない。当たり前だ。
早く提案なるものを言わねばならない。ええっと、なんだっけ。
「教育についての提案だ」
このことをいつか提案するつもりではいた。
「あら、私を教育するつもり?」
「ちがう。子どもだ」



