ネヴァーランド
発光物質そのものが、生物の生死に関わらず、何らかの過程を経て抽出されて、体にこびりつくこともある。そんな時は、歩行者の首だけ、片腕だけ、腹だけが、それぞれの器官の内部にともした灯を、皮膚を通してうっすらと外へ漏らしながら、漂っていると見えなくもない。
天井が高く道幅の広い朱雀大路は、内側に鏡を張られた筒のようで、その素材が蛇の体脂であるにしては全体の印象が無機的で工学的だが、低くて狭い三条通は生命の蠕動と臭いに満ちている。ここを通るたびに僕は胎内巡りを強いられている感じがする。
毒々しい原色のきのこ類は、種類別に群生して側溝を縁どり、大小の幾何学模様を散りばめて花垣のように壁を彩る。それらが美的な秩序を保っているのは、女たちがさりげなく手入れをしているからだ。
きのこの傘から下に向かって射した光は、濡れた足もとに当たると、散乱して間接照明をなす。たまに混じる捩れたきのこが、あちこちへ投光機のように光の筒を伸ばす。
発光性粘菌類はこの通だけではなく左京一帯の王者だ。その正体は南方熊楠が水槽で飼っていて逃げられた所謂クマグス粘菌だ。
クマグスは、複雑なポリリズムにあわせて点滅する電飾帷子のようのものを身にまとい、黄褐色の動く絨毯となって壁と天井を覆っていく。だが、昼夜分かたず推し進める拡大政策はたちまち頓挫する。クマグスは、既存の菌類たちの構築したマジノ線に行く手を阻まれ、はびこる余地を失う。体に無数の瘤が膨れ上がり、それらが噴火のように胞子を吐きながら脈状に繋がるにつれて、岩盤から剥離し、垂れ下がり、全身の褐色の度を濃くし、ついには壮絶な全身同時の自殺に追い込まれ、轟音立てて落下する。死体は団子になって側溝を転がり、外の斜面を転がり、川に落ちて、魚たちの餌になる。だがしばらくすると、岩や他の菌類の隙間に隠れていた次の世代が八方に広がり、相互に連結し、一体化し、同じことを繰り返す。
なにやら帝国の男たちを連想させる。
発光性の動物も、居眠りしている門衛をやり過ごして、特に鴨川口から、側溝を忍んで入り込んでくる。光らないやつよりは見つかりやすい。市民や奴隷が捕まえてよく刺身で食べる。毒きのこと同様に、猛毒を持つものに当たって痙攣死を招くことがある。
通勤路であるこの通を毎日歩く。そのたびに確かめようのない不安を抱く。毒キノコや毒虫が直接的即時的なマイナス効果を市民の肉体に及ぼすだけでなく、多種多様の原生生物らの吐き出す瘴気が、微風に乗って帝国内を循環し、市民の精神に麻痺沈滞失調錯乱等の効果をじわじわと及ぼしていないとは言えない。
西洞院大路に出た。四辻の仮想ロータリーを歩行者たちは夢見心地で反時計回りにまわっている。この循環から永遠に出られそうもないやつがいる。そいつの視覚野には、左から右へ、九十度ごとに、まっすぐな一本の通がなす一点透視図が、通り過ぎてはやって来て止まらないのだろう。ロータリーの中心で、誰かに謝るように両手をついて吐いているやつがいる。陥没した肩甲骨の間に別の酔っ払いが吐いた吐瀉物が盛られていて、体の揺らめきにつれて崩れていく。当人の眼がどれほどせわしなくまわっていることか、想像するだけで僕の眼もまわりだす。
奴隷たちが、歌を唄いながら土砂運搬作業に精を出していた。いかにも労働歌風のメロディーはかつて何度か聞いたことがある。一緒に唄ったことはない。歌詞のほとんどは即興で作られる。列の先頭の者が一句唱えると、残りの者がそれを合唱で繰り返す。
楽しい一掻き、生きがい一掻き、ファイト一掻き、充実一掻き、さわやか一掻き、明日への一掻き、正義の一掻き、珠玉の一掻き、……の一掻き、……………
西洞院大路では、側溝を跨ぐ橋は、珍しく木製だ。渡る時に奴隷の誰かが下から僕に向かって声をかけた。その直後、何かが飛んできて、僕の尻に当たった。まさか血まみれの歯であるはずはないと思うが、それに極めて近いと推察できる接触感だった。無視して前へ進んだ。後ろで笑い声がする。土砂にまみれていた歯を拾って投げつけたのだろう。
奴隷たちにはほぼ毎日かまわれる。モーゼの家庭教師となった僕は、彼らにとっては裏切り者であるからだ。
ニンテンドーの操作法を知っているというだけの理由で、奴隷からホワイトカラーへの階層間飛躍をしたのはずるいだろう。
僕もその通りだと思う。
知識の独占をステイタスの根拠にするとは見下げ果てたヤツだ。
やはりその通りだと思う。
だが、僕はそのようにしか生きてこれなかった。あのときの選択肢は、二つしかなく、一方は死だった。選択自体から降りることは許されなかった。
モーゼは、ブラザーたちの足によって地面に貼り付けにされた僕を見下ろしながら、お前はいやとは言わない、とのたまった。わかったよ、と応じるまでに二十カウントかかった、いや、かけた。即断即決したのではない。
その後思い出すたびに身が震えるほどのものとするためには、充分時間をかけて屈辱を味わう必要があったからだ。
そのかいあって、今また歯をくいしばり、頬を震わせる。屈辱は毎度新鮮に蘇る。
手を上げろ、さもないと殺すぞ、と恫喝されて手を上げただけだ。やっとたどり着いたのに何もしないまま殺されるという事態を選ばなかっただけだ。
奴隷諸君、わかってくれとはいわないが、そんなに僕が悪いのか。
室町を過ぎて烏丸にかかる辺りで、子供や赤ん坊のたてるわめき声や泣き声に混じって、ソプラノで歌う声が聞こえてきた。女たちは家事をしながらよく歌う。第二の、やや低めの声が、一小節遅れで追い始めた。第三、第四の声も上がり、僕の憂鬱がいささかでも癒されるかと期待したが、粘菌も剥げ落ちるほどの、男の割れた大声、う〜〜〜るさい、で、合唱は、はたと止んだ。それだけではなく、子供や赤ん坊も声を呑みこんだ。少数の通行者も足音を非難されたかのように立ち止まり、漏れている音声はないかと耳を澄ました。僕もつられてそうした。耳鳴りが聞こえそうな沈黙が訪れた。水中にいるようだった。
僕の体はまだ乾ききっていない。宴の池の沈黙と冷たさの記憶からまだ抜けきっていない。
水に浮かびながらついさっき経験したしばしの間のあの高揚を、他人事のように思い出す。過去の自分を清算する、などと洩らしたと思う。恥ずかしいことだ。清算とは、処理手続きが定まっていることを前提としている場合に使われる言葉だ。手続きを通用させているような状況を、そこに含まれている自分も含めて批判する際に、それが使われていいはずがない。
最初からケチがついてしまった。しかし、自分を批判することにまだ慣れていない、という稚拙さはたいした問題ではない。慣れればいいだけの話だ。何を自分がしているのかよくわかっていない、という洞察力不足が問題なのだ。愚かしさは慣れるに従って頑強になるからだ。
赤ん坊が鋭く泣き叫んだので魔法が解け、僕は歩き始めた。通にはもとどおりの流れが復活し、押し殺した声でではあるが、再びソプラノが聞こえてきた。
東洞院大路にさしかかる。左手に土塀が見える。ヘレンの部屋の前に張り巡らされている。それを背に坐り込んでいるいつものガードマンがいないのに気がついた。



