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ネヴァーランド

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奴隷達の掛け声が聞こえてくる。東側の側溝では女が渡った竹橋のすぐ向こうで、西側の側溝では四条あたりで、土砂運搬作業が行われていた。四列縦隊を保ったまま作業場に向かう一団も、そのあたりを東から西に横切った。あの、以前から気になっているびっこの奴隷が混じっていた。今度見かけたら話しかけてみよう。びっこどうし、お友だちになりましょう、は、まずいか。
三条から北辺までの右京地区は、食料を貯蔵する倉庫街であり、酒を溜めた池が散在する無料飲み屋街であり、ブラザーたちが居住するハーレムでもある。酔っ払い男達が大路のそこここをゾンビのようによろめき歩いている。酒場を目指し、あるいは、そこから帰ってくるのだ。帝国の女は、ハレの日にしか飲まない。姿勢がよく、威勢もよく、足早に移動する。乾燥食料を調達するために倉庫街に赴く。池のほとりにたむろする亭主を見つけて、罵声を浴びせることもあるが、本気で、ではない。
古文の授業で習った限りでは、盛時の都には、たくさんの物売りがいた。商う品数も豊富だった。野菜、花、薬、飴、暦、細工物、鋳物、生魚、干魚、塩、醤、酢、酒等々。尤も、商業倫理が確立していたかどうかは疑問であり、たとえば、鮨鮎を売っている酔っ払い女が、ゲロをその上に吐き散らし、あわてて手でこねまぜてごまかしたという一節を憶えている。
帝国に物売りはいない、商売をする意味がないからだ。経済が存在しないからだ。商業活動がないし、市民は日常さほど頻繁には往来しないし、動物はうろつかないし、ましてや乗り物を牽くこともない。帝国内に常住する大型動物は、モーゼが行幸する際にうち跨って、殴る蹴るして操縦する両生類くらいだ。……ニンテンドーの操作をモーゼに学習させる際に、両生類を実験動物として利用するのが効果的であると今気づいた。そういうことを実行すると僕がどうなるかは、とうにわかっているが。とにかく、朱雀大路は帝国の住民にとっては大規模すぎる。たまに催されるイヴェント用と見なすのが妥当だろう。思い出す頻度は、たまに、どころではないイヴェント。
酔っ払いがわざとぶつかってくる。目が合ってしまって、タダヨシだなあ、と言われた。額に皺が立て込んだ、厳しい表情だ。息が臭い。からまれそうだ。こんにちわ。言ってからすぐに顔を背けて離れる。女たちが互いにつつきあいながら大げさに身を引く。ホモの魔……、とささやく声が聞こえた。モーゼのペットよ、とも言いたいんだろう、奥さん?
大路をまっすぐに歩む。僕の影が、何通りも左右の壁に映る。ある影は駆け足で僕を追い越し、別の影はムーンウォークで後退して僕に追い越される。三条を右に折れずに、大内裏を目指した。朱雀門の門衛に、目礼して中に入った。青みがかった光に包まれて、宴の池は緩い傾斜のすり鉢の底に沈んでいた。空っぽの円形劇場の舞台のようだった。僕を見つめているのは、門衛二名と、壁際に立っているガードマン八名だ。白っ子らが壁面に穿たれた官舎から、姿が見えない両生類もまた壁の巣穴から、僕を窺っているかもしれない。どうであれ、それらを無視して、そっと水に浸かる。川や水飲み場をしのぐ冷たさだ。仰向けになってドルフィンキックで進む。浮島の一部である蔦に頭が当たったので、反転してそれに両手でつかまった。
僕の身体の真下には底がない。水面が目のすぐ下までくるように顔をやや伏せると、右の頬と下の歯の間に挟んだ水晶を人差し指と中指でつまみ出す。手を下ろし、立ち泳ぎで体をねじりながら一回転する。見えている者で、動くやつはいない。見えなかった者が出てくることもない。根にも段差にも引っ掛からないように、浮島から距離をとってから、水晶を放つ。水晶のもたらす火、火のもたらす一切を、放下してしまった。すでに導入された火の始末も早急につけなくてはならない。これからも、誰か、あるいは何かが、火を導入するきっかけを作るかもしれないが、僕はそれを阻止する立場をとり続けると決めたのだった。
旗色を鮮明にしてしまったとあらためて意識すると僕は猛然と興奮しはじめた。この立場に適合しない残滓をかなぐり捨てること。危うく間違いを犯しそうになった自らに外科手術を施して信頼できない部分を剔抉すること。それらはマゾヒズムをいたく刺激する。だが、勿論被虐嗜好を満足させるために行動しているのではない。今までの枠組みの中で生じていた矛盾を見つけ出し、淘汰し、新たな枠組みの中で無矛盾な世界を作ることが、僕のモラルであると思い知ったから、それに則って行動するのだ。むしろ、行動がモラルの在り処を指し示したと言うべきか。実際には、行動と言うもおこがましいような、行動の計画を立ててそれを実行しかけたところで取り消しただけのことだった。外的状況には何の変化ももたらさなかった。しかし、僕にとっては取り消しもまた行動だった。しかも重大な意味を持つ行動だった。かつては、自分を形成した首尾一貫性のうちに安住し、それを否定することはおのれの人格を否定することにつながるとして生理的にまで忌み嫌い、否定の後の空白に直面することを恐怖していた。ところが今や状況は拡大し、深化した。僕に植え付けられていた趨勢をたどると、市民の幸福と真っ向から対立することに、危機一髪のところで気がついた。これを契機として、僕の意志は未来へ向かって奮い立ち、忌避や恐怖を凌駕した。
偽りの無矛盾に結着をつけ、過去の自分を清算し、たとえ暫定的にであれ、一貫した論理と無矛盾を獲得せよ。獲得したと見えたものが破綻したら、再びわが身も含めて清算し、新たな論理の格闘に身を投じよ。永遠にそれを繰り返せ。
ああ、Dangerous99proofを喰らって、自らの自らによる自らのための解放を祝いたくなるではないか!
ところが、この高揚に冷水をかける大きな懸念に、僕はとらえられた。帝国市民の誇る、モラルを無視した無矛盾性、「無矛盾だから存在する」、「論理的なものは現実的である」、に、似てきていないか? 僕の、無矛盾性をモラルとすることと、市民の、モラルを破棄して無矛盾的に生きることと、どこが異なるのか? 違いはただ一点のみで、それは…… 誰かがささやく。似ていてどこが悪いんだ。お前と彼らとの連帯の機会が到来したというのに。
どうも足下が心配になってきた。顎を上げて大きく息を吸い込むと潜った。
……追いついた。額のすぐ前を行く小惑星のようなそれを見つめながらしばらく後について行った。キックを止めた。それはひとかけらの水晶に過ぎないが、社会を次の段階へ誘う導き手だった。近代を内に秘め、希望を残さないパンドラの匣だった。さらば友よ、と言いそうになった。苦笑が泡に包まれ、腹を撫でながら昇っていった。鼻に少し水が入った。水晶は、輝かず、ゆっくりと回転しながら、遠のいていった。
僕は、池から上がり、何度かジャンプして出来る限り水を切ると、ヘレンの部屋に向った。

96)

三条通を東に折れ、ヒトミと暮らす部屋には寄らず、堀川小路を横切った。ヘレンの部屋まではあと七ブロックある。
朱雀大路では、両端の門と左右の横道から射しこむ光による受動的照明を採用しているが、それ以外の通では、発光生物を光源としている。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦