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ネヴァーランド

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目の焦点を合わせていた老婆が消えたので、焦点が合わないぶん、数が二倍になった星達の朧な目が、ジャングルの上空から僕を見つめていた。僕はゆっくりと顔を上げていった。核融合反応に手を出して連鎖反応を止められずに自壊した文明の行き着いた果てが満天に散らばる無数の美しい星と星雲であるという妄想が僕を捉えた。
耳の奥にさっきの二つの音がありありと甦った。
通常は、岩にぶち当たると、頭蓋骨も胴も四肢も砕ける。皮膚ははち切れて内部の気体と液体が飛び出し、ぱっかーっ、高いキーの音を出す。酔っ払いはその音を立てた。だが、老婆は通常の破裂音ではない、くぐもった穏やかな音を立てた。息子の上に重なったからだろう。

95)

広場の縁を左側の崖に沿って進んだ。崖には、指がやっと入るくらいの、幅の狭い溝が幾本も縦皺のように刻まれ、雨が上がってからまだ間もないので、底面に宿った水玉が時々溝に沿ってわずかの距離だけずり落ちる。そのタイミングを目で追いながら歩いた。無数の水玉は広大なマトリックスとなって、小刻みに滑落と停止を繰返し、明滅する星と流星群に呼応するように、時々光った。自然が密かに実行する謎の計算過程を見せられ、挑発されている気がする。落ち着かない。
理解する暇を与えないという悪意さえ感じたので、戯れのふりをして立ち止まり、おい、ちょっと、待てよ、水玉の一つを人差し指で押さえつけようとした。案の定取り逃がし、指がめり込んでしまった。抜いてみると、爪と皮膚の隙間に、赤土が挟まっていた。チャーリーを埋めるために穴を掘った時のことを思い出した。先端には泥がつまり、付け根からは血がにじみ出ている爪が見えた。僕はそれを、いや、現実の指先をしゃぶってからつばを吐いた。
水玉達は崖と広場とがなす交線まで降りてきて、こちらからは見えない切れ込みでも在るのか、姿を消す。何本もの灰褐色のパイプが、面から面へ、交線をまたいでつながっていた。長さも太さも人さし指ぐらいだ。その一本を蹴ってみると、たくさんの地蜘蛛の子が散乱した。市民や奴隷の残した、石灰が剥がれて雨水が溜まっている足跡を、迂回して逃げていく。針穴のような足跡がついたはずだ。僕は、河の上流を目指そうと決めた直後、湿地帯を迂回して、仲間たちの足跡を追けたものだった。その後も、仲間たちが、支流に沿って離れて行ったかどうか、河そのものから逸れたかどうかを見きわめるために、足跡を手がかりにした。追跡の手段を確実に手にしているという安堵感が今なつかしくよみがえる。
広場の足跡は今後ますます多くなるだろう。石灰が、たくさんの足によって踏みつけられ、足の裏についてどこかに運ばれ、風にも運ばれ、雨にも流され、残りもその下の赤土や土砂と混じり、広場が白くなくなったころに、また戦争が始まるのだろう。
急に胸騒ぎが始まった。近頃時々襲われる。これが前触れであることを僕は既に知っている。思い出ではなく、思い出に似たものが、投網となって頭上からかぶさってくる、その寸前の、或る気配だ。一瞬、脳の中で舞い上がるような気がした。現実から掻っ攫われて宙吊りになった。
荒らされたチャーリーの墓が目に浮かんだ。こんなことがないようにと突き刺しておいた火山弾があたりに散乱し、崩れかけた黒い穴があるばかりだ。モーゼがとび跳ねながら檄を飛ばしている。乗っている蛇の頭蓋骨は、音を立てて歯噛みする。本日、天気晴朗なれども風強し。楽園の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ! 石灰の粉が煙る。移動する軍隊。いのしし陣形。ジャングルに潜む赤目に向かって次々に石が投げられる。木の幹に当たる音が最も頻繁に聞こえるが、百回に一回は命中する。音がまるで違う。ちぇっ、いよいよだな。前に出ろ、前に! 押すなってば! 酒、効き過ぎて動けねえや。眠いぞ。前、前、突撃! 臓物を獲りあう子ども達。執事然とした禿鷹が水飲み鳥のように背を伸ばしたまま、失礼をばつかまつります、前傾して死肉をついばむ、おいしゅうございました。水飲み鳥の原理をアインシュタインは見抜けなかった。赤ん坊が這ってくる。もうすぐ僕は見つかる。チャーリー、大奮戦。坊っちゃん、逃げてください。炎を引き摺りながらのたうつ恐竜が、呪いの大音声を上げる。誰だ、誰だ、誰だ、俺をこんな目に会わせやがったやつは!
断片的なイメージや音響が、脳内の沼の表面に、あぶくとなって湧き上がる。実際に起きたことをなぞってなどいない。夢による覚醒の歪曲と同様に、早くも何者かによる記憶の歪曲が始まっている。それは、次の繰返しを滑らかに成り立たせるための微調整である疑いがある。良い夢は一度しか見ないが、悪夢は繰り返す。むしろ、繰り返されるからこそ悪夢なのだ。とすれば、この脳内現象は悪夢に似ている。繰り返しを現実へはみ出させず、夢の中だけにとどめておくためにできることが何かあるだろうか。
お帰り、ホモあんちゃん。呼びかけられたことを、洞窟の玄関口を通り過ぎてしばらく経ってから意識した。左右に坐っているブラザーの、どちらの発言だったのか、もうわからない。今さら振り返りはしない。僕らが、あれ、をしたのを、ハットリが木陰に隠れて見ていて、早速告げ口をしたのだ、という冗談が頭をかすめた。
呼びかけを意識したのは、悪夢を断ち切る目覚まし時計の役割を、周囲の臭いの急変が果たしたからだ。広場に漂う濡れた石灰と鳥辺野から吹き寄せる薄煙の臭いは、側溝で奴隷達が掻いては送る廃棄物の腐敗臭に取って代わられた。腐敗臭はそよ風に乗って帝国全体を循環している。しかし、五感の内で嗅覚は最も疲労しやすい。僕もたちまち腐敗に慣れた。
羅城門を抜けて朱雀大路に入った。横長の楕円形の下部四分の一を切り取ると大路の断面となる。ちょうど一匹の大蛇を輪切りにした形だ。実際には、複数の蛇がもつれあいながら先を争ったりすれ違ったりしていたことだろう。漂う胞子の霞に紛れてはるか向こうに開いている朱雀門から、青みがかった明かりの祠である大内裏を窺うことができる。ブラザー達の後姿もすでに遠くにかすんでいる。
直交する横道から、粘菌や菌類の放つ青や黄色の蛍光が放射されている。一方の横道の開口部あたりを頂点とする光円錐は、大路を隔てて向かい合う横道の開口部を覆い、その開口部から出た光円錐は、向かい合う元の横道の開口部を覆う。互いが、相手を同型写像した像に、その真部分として含まれているかのようだ。光の束は、ほぼ等間隔に並び、梯子か遺伝子のように左右の壁面をつないでいる。明るんだ壁の辺りは、蛇の脂からなるコウティングを透かして、ぼんやりと朱がにじみ、特に横道の開口部は、生き物の管の切り口さながら、縁を赤く染めている。
先ほどの女が、逃げる子どもの先周りをし、ここでも大声を上げ、何べん言わせんの、宿題しなさい! 巧みに首根っこと肩を捉え、 引っ立てて、七条あたりを右に折れた。他にも子供はいたと思う。先に帰ったのだろう。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦