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ネヴァーランド

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唇を閉じたまま顎を下げ頭を左に傾け水晶を右の頬の内側から左へ移す。さっきしゃべった時、噛み合わせがずれていて、発声しにくかったからだ。今度はどうか。
ヒトミ、繰り返すけれど、さっきよりはましだな、少なくとも今はあれはしないんだ。抵抗感の具体的な詳細は、整理して後で伝えるよ。その時、少し、話し合おう。ああ、まだよく言葉が通じないから、話し合うことは無理か。じゃあ、なるべく簡潔に、事情を伝えるつもりだ。
もちろん、きみを愛してるよ。おや、先走って、簡潔に伝えてしまったかな?

94)

小川は滝になりそうな勢いを見せて川床の傾斜角度を急にしかけたところで水平に切れる。切れ目の向こうでは泉が待っていた。円形に打ち抜かれたジャングルの底に水面が現われ、一足毎に下がっていく。 それに連れて密生したまつ毛のような周囲の樹木がせり上がる。
濃紺の水面は、地の底から湧きあがる水の勢いで、中央がわずかに盛り上がり、いく重もの水の皺が岸辺に向かって押し寄せていた。皺は、細かなちりめんに縒って縮まるかと思うと、大きな凸レンズとなって天体からの光を泉の奥に結ぶ。月の光に照らされて泉のほとりをそぞろ歩む僕らの影は、微妙に振動しながら、水面の皺を撫でて行く。過剰な水は涙のように溢れて背後の小川に流れ込みつつあるはずだ。
右足がやや楽になってきた。さほど重くは感じなくなった。かすかな肉体的回復でも、精神的安定に寄与はするだろうと期待した。
そこで、ヒトミとは、手をつなぐだけにしたところ、期待が甘かったとわかった。足場の悪い川床と川原を踏んできたせいで、踏み固められた道が、かえって不自然に平衡感覚に作用した。川の流れが原因である酔いも残っていた。身体はふらつき、心もまた動揺した。ごまかすために、おおげさに、近寄って肩をぶつけたり遠ざかって腕を張ったりした。羞恥をごまかそうともしていた。
泉の向こう岸には、消え遅れたかすかな霧を透かして、奴隷たちの影が十個ほど並び、ひどくゆっくりとキーボードを打つように、上半身を上下させて水を飲んでいた。右手に突き出した大岩の上には見張りが坐っているらしいが、岩と一体化していて境目がわからない。
境目を探すような振りをしながら、横を見ずに口を開く。
ヒトミ、僕のわがままにつきあわせて、えらい面倒をかけてしまったね。僕は食欲がないから、一人で行きなさい。
つないでいる左手をほどいて、ヒトミの右肩を指で押した。
はい!
その素直な明るさに狼狽し、横目で見てしまった。肩を組んでいても、手をつないでいても、ヒトミは黙ったままだった。終始落ち着いた挙措にも伝わってくる思いにも、かつてなかった余裕が感じられた。だからこそ裏腹に、その奥には押し殺した有頂天が潜んでいると診断できた。今の、はい!、は、その証拠となった。ヒトミの自信に満ちた明るさを目の前にして、僕は自らの狼狽ぶりを憐れみ、兄と弟の役割を交代しようと提言しかねないほどだ。嫉妬と劣等感が湧いてきそうでいやになった。
ヒトミは振り返らず、分かれ道を左へ辿り、泉の周囲を巡って、見張りの背後を通り、木の実食堂へ向った。その後、ヴォランティアとして奴隷活動に従事するはずだ。もうその必要はないと言ってもきかないのだ。
僕は右へと折れる。小川では頭上を川に沿って森の裂け目が延びていたので、夜空が心の離陸を促したが、ここでは左右から木々がプルターク祭の笹竹の様に覆いかぶさり、ほんの時たま葉間に星が覗くだけだ。石灰を敷き詰めた広場とは異なり、道の両側を円錐状に積んだ石灰が滑走路灯のように点綴する。洞窟内の発光キノコ、カビ、粘菌の代替物だ。手を伸ばして、白い円錐の天辺を掠め取り、片足で立ち、右足首を左膝に引っ掛け、上を向いた傷口に石灰を詰めた。官能が蘇らないように、さっさと封じておきたかったからだ。しかし、詰める行為が官能を掻き立てた。それだけでなく、この姿勢そのものが、ついさっき、小川でとったものだ。形の繰返しが、中身の繰返しを誘発した。ヒトミに足をひったくられたかのように、釣り合いが取れなくなり、同じように尻餅をつく。もう一度円錐に右腕を伸ばし、掴めるだけつかんで、足の裏に叩きつけ、その足の面を腐植土に叩きつけた。足は弾んで、膝が、起き上がろうとする僕の顎を打ちそうになった。もう一度ゆっくり足を着けてから立ち上がった。官能の蘇りをようやく阻止したつもりだったが、それに続く引き摺りがちの歩行は、ねちっこく、のろく、気だるく、生ぬるく、意のままにはなかなかならなかった……
ジャングルの長いトンネルを抜けると広場だった。夜の底が白くなった。
夜の天では、静止した星達に混じって、ほぼ一点から四方八方に跳び散る活動的な一団があった。制御できない連発花火の火の粉が夜空を突っ走っていた。この惑星へ何年振りに到来したのだろうか。ナポレオンがロシア遠征した時に見られたのは空にほぼ張り付いた長大な大彗星だったが、これは流星群だ。彗星は見えない。特異なショウの様子を覚えておこう。いつか、この時を、今僕があるこの瞬間を、時系列中に確定出来るように。
地上では、月と星の光が輪郭線を闇に浮かび上がらせ、思いがけない影絵劇が進行中だった。複数の黒い影が、ゆっくり、あるいはせわしなく、動作していた。
酔っ払いの死体が引き摺られていく。引いている二名のブラザーは大声で卑猥なおしゃべりにふけっていた。死体に続いて、ずた袋がやはり引き摺られていく。……そうではない。病気にかかっているらしい生き物が、四つん這いで、よろめきながら引き摺られていくところだ。萎びて延びきった乳房が地面を掃く。観察を続けた。やっとわかったことには、それは酔っ払いの顔に自分の顔を近づけたまま這ってついて行く老婆だった。老婆の目には、僕が見た時のようにさかさまに死者の顔が迫っているはずだ。
子供がいる。数ははっきりしない。洞窟の玄関を出たり入ったりしていて、少数が頻繁に出入りしているのか、多数いるのか不明だ。はしゃいでいる。やがて広場を走り回る子も出てきた。母親らしき女が叫ぶ。崖に近づいちゃいけないって言ってるでしょ! 叫んだ口から赤く滲んだつばが散る。顎に血が垂れている。
老婆は、まず確実に歯がないから、折って吹き飛ばすことは出来ないはずだ。
かすかに聞こえてくるものは、風の音か、泣き声か。かすれているのは、遠くの木々の葉や枝か、しわくちゃになった声帯か。
ブラザー達は、がけっぷち手前で弧を描いて左へ旋回し、死体を縁とほぼ平行に横たえると、掴んでいた足を地面に放り出し、肩と背中を蹴った。酔っ払いは横に転がり、うつ伏せになり、さらに甲で胸と腹をしゃくり上げられて仰向けになった。もうそのときには、右半身の下には何もなかった。左手がボールを投げるように振れて、酔っ払いはいなくなった。
ブラザー達は猥談にふけりながら、子どもらと女がわめく声の中を帰って行く。
老婆は、見失った死体を探そうと、地面を、そして宙を水平に這ったが、前方にはいないと悟って、下を見た。納得がいったらしく、すぐに姿を消した。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦