ネヴァーランド
とうとうやってしまった。これからどうすればいいんだ。
ヒトミの眼を上目遣いに窺いながら、視野の下の縁周辺に注意を向けると、ヒトミと僕との反応の違いは一目瞭然だ。お互いの膝頭を接して出来たひし形のプールの中で、ヒトミのは顎を突き上げているが、僕のは腹に隠れて見えない。ヒトミ、見てごらん、これが今現在の僕の気持ちだ、とは言わなかった。ヒトミが、僕から眼を逸らさないのは幸いだった。見たら、何をしようとしてくるか、予想がつく。そういうことをしたくない。再び僕は顔を近づける。ヒトミの紫色の舌先が唇をすばやくなめたのが見えた。だが、こんどは、そうはいかない。ヒトミの両眼が僕の両眼の外側に止まる。僕は、額を額に押し付けて、ヒトミの死角に入った。ここを隠れ場所にして、時間を稼ぎ、落ち着こう。やってしまったことを反芻し、その意味を考えよう。
まず、、ヒトミが慌てふためきながら、足をかき抱いた。心情あふれるとっさの動きは、鮮明な映像となって脳内劇場のスクリーンに映し出され、観ている僕を感動させた。その後、異様な衝撃波に見舞われたせいで、画面が縦方向に急転回した。傷口が性感帯になっていたとは思いもよらなかった。その瞬間に限っては、僕のも顎を突き上げていたことだろう。傷口のアップと周囲のジャングル。いつ襲ってくるかわからなかった獣達も、ばら撒かれた石灰と茶葉を嫌がって近づかない。安全圏内に帰ってきたという安心感が、ヒトミの今と過去を思う余裕を与えた。たくさんのヒトミのスナップショットが連射された。それらを貫く、友情信頼愛情感謝等々と称しうる親和力を、僕は見出した。ヒトミの顔が近づいてきたとき、映像は音を伴うようになった。水音も、蝉の声も、甲虫の羽音も、葉擦れの音も、ハットリたちのささやき声も、星たちの飛行音も、その親和力に味方して、僕の後頭部を押し、口づけを促した。漂ってくる樹液と樟脳の香りが、ついさっきの性的興奮の余韻と区別がつかなくなった。長い間の密かなヒトミの願いを、もう無視することはできなかった。旗色を鮮明にして新たな段階へ進むのが正直な生き方だと誰かが耳元でささやいた。ヒトミとの関係を明確に意味づけるのに何を躊躇しているのか。他にとる道はない。当然のことをするまでだ。
ところが、唇を離した時から、たちまち気が滅入ってきて、胸が重くて堪らなくなり、今や深い後悔の淵に沈んでいるのだ。
行為の前には行為は笑顔で誘惑し、行為の後には行為は背中で嘲笑する。新たな段階なるものはがらりと様相を変え、実におぞましく見える。僕は、唇が象徴する肉体の門からころげ落ち、粘膜に覆われ蠕動する肉のトンネルに引き摺り込まれ、囚われの身となってしまうだろう。恐ろしい生活を容易に展望できる。冷める余裕のない、肉欲的な行為の、怒涛のような連続だ。ヘレンとその仲間達との狂乱の記憶があるので、それを繰り返さないという自信はない。繰り返した後の失望と退廃はさらに怖ろしい。ヒトミとの関係は、ホモ関係に還元されるものだったのか。それは明確化ではなく矮小化ではないか。ホモに偏見は持っていないつもりだが。目的を達することができたヒトミの変化も心配だ。本格化していない今なら何とか取り返しがつく。ここで踏みとどまらなくてはならない。
どうすればいいんだ、だって? 踏みとどまらなくてはならない、だって? ははっ、よく言うよ、自分をごまかす言い草だ。こういうことは、予見し、期待していたことで、時間の問題だったのだ。待ち望んでいたくせに、なーにをいまさらっ。幕は切って落とされたんだ。勇を鼓して前へ進め!
またか。うるさいな。僕はありありと思い描く。脳内の小人さん達が、白い広場で、歪んだ輪をなしてゆるゆる回っている。時々、次は私だ、次は俺だと、声を上げ、真ん中に鎮座する蛇の頭に駆け上り、僕に向かって僕の内から発言する。彼らの中には、見たこともない父の化身も、僕自身も混じっているだろう。どれだけの数の者がそれぞれどのようなキャラクターと来歴を持っているか、つい近頃までは知りたいところだったが、個は実体ではなく幻想であるから、個の単位はあいまいであるし、そのうえ個がさらに大勢の下位の個から成り立っているので、小人さん達を数えたり特定したりするのはとうてい無理だとあきらめた。発言がさらに頻繁になり、複数の者が同時に発言するようになったら、発狂を防止する手立てを考えねばなるまい……
キミの言っていることは間違いだ。そんな気持ちは、もとから、さらさら、なかった。ヒトミの要求は知っていたが、乗る気はなかった。さっきは魔がさしたんだ。僕らの間柄はそのような関係に還元されない。
ちがうちがう、還元された関係のほうがはるかに力強く豊饒だ。今までの関係はオマエが抑制してきた偽の友情であり、様々な偽の関係だ。愛欲をそんなふうに偽ってきたんだ。熱烈キスの後でさえ自己を偽り、過去を捏造しているぞ。ごまかすなっ!
それこそちがうね。今までの関係は友情等々以上のものだ。親和力とでもいうべき現実的な引力であって、それは本来形容を拒否する。友情にかぎっても、偽ではない。抑制していたのは性的なものに限る。僕らの関係は本質的に愛欲とは異なっていたから、愛欲の介入を僕の方は阻んできた。ヒトミは、慣習と教育と強制で形成された表現方法しか持っていないのだからしょうがないだろうに。さらに、性的なものを抑制してきたのには、あのヘレンや浮舟たちとの狂乱のヴァルプルギスの夜、いや、蛍光灯の下のヴァルプルギスの真昼、を経験したことも理由となっていた。何故か。あの真昼を経験したからには、それとの比較でヒトミとの新たな関係を見て、必ずや失望するだろうからだ。そのことは前からわかっていたんだ。生理における先着順の原理だ。ヒトミとの信頼愛情その他の行くつく果てをこういう行為で具象化してしまうと、その後、うまくはいかないと怖れていたんだ。そうするつもりがなかっただけでなく、そうならないはずだと予測し、そうならないでくれと願ってきたのだが、なってしまった。状況の繰り出した一瞬の魔法にかかってしまった……
ねえ、キミ。キミは、いったい誰なんだ? 僕の分身を気取っているようだが、それらしくは見えないね。少々図々しくないか? ひとりにさせてくれ。 消えてくれ。余計な口づけをしないでくれ、じゃなかった、口出しをしないでくれ。
…………
僕は、ひどい消耗状態にあった。水晶がこぼれ落ちないように斜め上方を見ながらゆっくりとしゃべった。
ヒトミ、三分の一日経ったらまた会おう、今、発情するのはよそう、これからの日常業務にしばし我を忘れてしまおうよ。
我を忘れて! 魔がさした、とは、逃げ口上に過ぎないのではないかと悩み始めていた矢先に、破廉恥なことを口走ってしまい、自己嫌悪のドツボに嵌まった……
ヒトミは僕の右側にいざり寄ると腋の下に上腕を入れて僕を引っぱり上げ、浅瀬を歩き始めた。言語を介さない、高濃度の思いのつぶてが、心臓の鼓動とともにひしひしと伝わってきた。あれこれ弁明をしなくてもわかっているのかな? そんなことを感じさせるほど、ヒトミにはなにやら計り知れないところがある。



