ネヴァーランド
オマエは、延々と失敗を続けてきた。それらはしょっちゅう悪夢となって夜となく昼となくオマエを襲う。あたりまえだ。当然の報いだ。溶岩洞への通路を作るという余計なことをした代償に、怪鳥の群れに襲われ、多くの死者を出した。戦争中、前線で似非ヒューマニストを気取って食料をばら撒いて、赤目に取り囲まれ、多くの兵士を死なせた。彼らは食われた。独りよがりの大義名分をいいことに、枯れ枝に火をつけ、燃え広がらせ、崖下を、大雨が降っても鎮火しない業火の谷間に変え、赤目たちを焼き殺した。チャーリーを死なせた。アルルカンも、酔っ払いも、助けられなかった。アヤカを幸せにしたか? ヒトミを幸せにしているか? そもそも、自分の仲間達を施設から放逐したのはオマエだ。その結果、不可逆の退廃を彼らにもたらした。
オマエは、愚かしく、疑わしい存在だ。信頼できない。極悪人の可能性さえある。そんなやつが行動していいのか。取り返しのつかないことをまたぞろやろうとしていただろう? あれを見ろーっ。
見えない、あるいは、見える、どっちなのかわからない人差し指が、なにかを指し示す。声は、最後の、ろ、が長く延び、僕を見捨てたかのように、遠ざかっていった。だれだったのだろう。
広場に新築された工場で、明るい照明の下、ひたすら作業をしている男の、既視感漂う後姿が、脳の中にかジャングルの暗闇の中にか、指し示された方向に浮かび上がった。おい、と呼びかけるとそいつは振り向いた。ぞっとした。後姿はやはりかつて見たことがあった、施設の壁に懸かっていた鏡の中に。コンクリートとセラミックスを素材に、嬉々としてスチームエンジンを作っている、バカづら下げた僕だった。
よおくわかった。こういうことを僕はやりかねないのだ。何たることか。何たることか。僕自身が近代主義者だったのだ。生まれてから今まで、ずっとそうだったのだ。
あーーーーー……………
火という化学反応を封印せねばならない。
まず水晶のかけらを捨てよう。
生まれて初めて、自らが決めた行動計画を自ら取り消した。
ナントイフ……
赤いめらめら炎が消え、電気と光とコンクリートが消え、近代社会が消え、もう皆ゴミと消えて、樹液と蜜の匂いに惑うはずの黄金虫と、獲物の体臭を舌なめずりして追跡するはずの肉食獣と、寝入りばなをたたき起こされて半醒半夢でうろたえるダチョウが、今や僕とヒトミに並んで暗闇と時間を突っ切りながら、笹竹をかすり葉を破り木の幹にぶちあたって生々しい音を立てていた。
水面を左足で割って踏みこんで、たまたま乗っかった石を、水晶に先んじて捨て去るかのように、後ろへ強く蹴った。
右足を腹につきそうなくらいに引き上げ、精一杯跳躍したものの、着地した時に捻挫してしまい、激痛に、ううっ、うめき、右膝と両手をついたが、体の勢いは止められず、ケツが月と星に向けて丸出しとなったはず、額が川床にめり込み、鼻から水と砂と砂鉄が、もっとの激痛を伴って侵入してきた。
他者にとっては無意味な一歩であっても、僕にとっては大きな……、ゴミの、一歩だった。
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タダヨシ、と叫ぶ声が、浸水した耳には、流れのせいでビブラートがかかって聞こえた。両肩を抱きかかえられて立ち上がる。口を大きく開けて息を吸い、閉じて、腹をへこませながら鼻から四回吐いた。砂と水と恐らくは鼻水が飛び散った。二人を三本足が支える。右足首をつかみ、捻挫した向きとは逆に、外側に曲げる。ただでさえ後遺症で血流が悪いのに、無理に走って最後は捻挫したので、左足に比べて一・五倍ぐらいに膨れ上がっている。
痛いか、どしたら、いいか。
慌てるとヒトミは言葉が下手になる。
ヒトミが膝間づいて、両腕で僕の手から足をもぎとり、胸に抱いた。僕はその胸に徐々に体重をかけていった。戦争の終わるころ、傾斜した草原に座り込み、僕の傷ついた足を抱き、甲と裏とを交互に舐めてくれたっけ…… ところが、今、体にひと波震えが走った。あっ、あの、ええと、きみの指が足の裏の傷穴に入っているぞ。間を置かず、第二波に襲われた。僕の手は空を掻く。ヒトミの左腕が伸びたが間に合わなかった。視界が急速に変化していく。黒い網目状の木の枝が下がり、幹が細くなり、連なる樹冠が見え、黒々と聳える清水の舞台が回転しながら通り過ぎ、星達が夜空に無数の引っ掻き傷をつけながら降りてきて、樹冠が逆さになってそれらを覆うと、枝と幹が後に続き、それぞれが太くなって、後頭部が迫りくる水面を、ない目で見たので、とっさに顎を引いて足首に額を近寄せようとした時、尻が水に落下した。ヒトミの胸に残した足が、古傷の陥没にヒトミの指をまだくわえ込んだまま、脳内のカウントにあわせて疼いていた。
ヒトミ、そこ、さわらないで。痒い、痛い、痒い。
僕は空を泳ぐようにもがいて自分の右足を奪い返した。左足を直角に立てて、その上に右足首を引っ掛けた。ふやけて膨れたそれは、生まれたての赤ん坊のように重く、おまけに揺れ、両手で補助していなければ、左足のふくらはぎのすぐ下あたりに渦を作りながら過ぎる流れに落としはしないかと危ぶまれた。赤ん坊の残像を払拭し、足の裏を観察した。かつては、陥没した傷口に噛んだ茶を突っ込んで笹で巻いていたこともあった。直ったと見なした後は、入り込んだ泥が乾燥して栓となって塞いでいた。今や、栓が水に溶け去って猛々しく開いた傷口の奥には、ふやけた皮膚が覆い及ばない、白桃色の脂肪と筋肉が窺われ、内臓と見まがうようで、我ながら? 恥ずかしくなる。
目をそらし、腰を水の中に下ろしたまま、周りを見回すと、いつのまにやら、ここあそこの木の根元が白い。崩れた白い円錐も見える。石灰がぶちまけられたり、積まれたりしている。僕達は帝国のテリトリーに入っていた。闇の中に、ハットリたちが身を潜ませているだろう。僕達を興味深げに、あるいは腹を立てながら観察していることだろう。
だいじょうぶだね。ヒトミがつぶやいた。ふり向くと、額をくっつけあいたいかのように婆坐りしたまま上半身を近づけてきた。その両眼は、間隔が開き過ぎている上にやぶにらみで、まわりにたくさんのそばかすを撒き散らしているが、美しく緑色に輝いていた。僕はヒトミのこけた頬を両手で包み、大切に大切にゆっくりゆっくり引き寄せて、鼻がぶつからないように少し顔を傾げておいてから、薄い唇にキスした。
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ヒトミの唇が、前後に小刻みにうごめいた。出たがっている言葉が、口腔を内側から叩いているのか。だが、唇を離した時、ヒトミの唇を開けて出てきたのは、長いため息だった。離れすぎた両眼は、僕を見つめようと必死のにじり寄りを試みながら、みるみる涙に浸水していく。あふれた涙は、長いまつげを伝って次々に垂れ落ち、緑色の頬に沿い、眼の子供である緑の小滴となり、顎へと下りて行く。顎からは細いよだれが糸を引いていた。その根元に涙が集結し、よだれをたどるものの、先のほうで切れ、大き目のしずくになって落ちる。この混和に、僕は呆然と見とれる。ながーく延びた。切れて縮んだ。また延びた。たーらり、たったっ。……我に返った。ヒトミを見た。
泣くな、ヒトミ、と今回は言わない。僕だって泣きたいからだ。



