ネヴァーランド
とどくはずはないが、ヤツに向かって水をひっかける。両手を体側につけて額から泉に跳び込み、すぐに頭を挙げ、水面から突き出して、来いよ、と怒鳴った。
全く反応がない。
チャーリーまで続いてきた伝統は受け継がれなかったということか。いやいや、彼らがこの地にたどり着いてからの時間を考慮すると、チャーリーより前に、伝統が形作られる余地はなかっただろう。チャーリーが初代で、戦争が終わったのはつい先ごろだから、ヤツは二代目だろう。チャーリーの輝やく個性が一回限りの奇跡を起こしたのだ。僕はしらけた。チャーリーの思い出をヤツに向かって披瀝してもヤツは迷惑なだけだろうと反省もした。
これ以上チャーリーを悲しみとともに呼び覚まさないように、あわてて泉から這い上がった。
腹に水が入ると、続けてすぐには木の実食堂で食事する気になれず、いいところに連れて行ってやるとヒトミにささやいて、泉からあふれた水が小川となって流れ下る地点をめざした。実は、連日の祝賀会の後遺症で、胃が荒れていて、食欲がないのだ。
時々振り返る。ヒトミは不安そうだ。
泉の水は、唯一の脱出口を境にして、画然と様子を変える。静かで平らだった水面が急に賑やかで凸凹に富むようになる。
僕はそそくさと小川に入る。大の字になって浮き身の姿勢をとり、流れ下る。
背面を小刻みに打ってせせらぎが施してくれるマッサージは、奏でるハイピッチの音楽とあいまって、眠気を誘うほどに心地よい。
ヒトミは川辺のごろた石にけつまずきながら小走りについてくる。
姿の見えない怪鳥どもの、思い切りスタッカートの効いた鳴き声が、点々と両岸から降ってきた。遠くでタムタムが鳴っているようだが、まさか。藪を突っ切って走る者は誰だ。顔の前を揺れて横切る白い影は蝶か花弁か。息を吹きかけてみたが、動きに変化はなかった。川に沿って霧が上って来た。たちまち僕らを飲み込んだ。顔に冷気が触れた。誰かにさわられた記憶が戻ってきそうだ。
動かない星達と沸き返る霧が微細な白い粒子の集合であるという点では共通し、だから混和した。霧のかたまりを目で追うと星達が動いた。
崖下を火葬場にするためにこの川を下った時、あるアイディアを僕にひらめかせた岩まで下ってきた。白く光る水面上に古い棒杭のように黒々と突き出ているので見逃さなかった。四つん這いになって近寄り、ミズゴケでぬるぬるするそれに下流から両手でつかまって座り込むと、雲古した。
筋肉弛緩と滞留物放出の快感が脊髄を駆け上り、長いため息となって口から出た。
ナントイフホガラカサ。
魚が足と尻をつつき、毛をひっぱる。くすぐったい。雲古をつつく間接的な触覚も、微細な振動として肛門で感じた。
笑いの欲求が疼く。刀が垂直を保ちながら皮膚を切り裂いていくように、淡水鮫の背びれが湖面を進むのを見たっけ。あれにつかまって疾走している感じだ。あーあ、味を占めてしまったな。毎日ここに来てこうしよう。それにしても無様な格好だ。
やはり笑ってしまう。ハハッ。笑いながら、ヒトミ、君もどうだい、と呼びかけた。実は、誘うつもりで連れてきたのだ。水に慣らしていき、ゆくゆくは水泳を教える予定だ。そして、並んでバルサにつかまって、あそこを目指すのだ。
ヒトミは小首を傾げ、恐る恐る川に足を踏み入れ、僕の両手の上に手を重ねて、とてもゆっくりと腰を下ろすと、意を決し、小声でキャーッと気合を入れながら、し始めた。
どうだい、快適だろ。肩を肩でつつきながら横目で見たら、ヒトミは笑うどころか緊張の極みにあった。ごめんね。悪いようにはしないつもりだったんだ。申し訳ない。
川原から駆け上がる崖の中腹に、薄暗闇と霧を透かして大きな鳥の巣が見えた。不思議なことに随分低い位置にある。胸部が朱色の昆虫が二匹たかって、角突きあっていた。
……巣ではない。数枚の竹の皮で何かが包まれ、木の幹に蔦でくくりつけられている。細かな虫食い穴が一面にあいた皮もあれば、腐れほどけて垂れ下がっているのもある。
笑いが止った。
赤ん坊をジャングルに返した跡だ。畸形児、障害児、罹患児、虚弱児のミイラだ。たいていは食い荒らされている。
僕だって、もし帝国に生まれ、誰かが遺伝子診断キットを持ち出してきていて、やや詳しく僕を調べていたら、幹にくくりつけられていたかもしれない。性染色体がXXYである僕は畸形児であると判定されただろうからだ。異常のある部位が性染色体だけかどうかは未だに疑問だ。
どきどきしながら、辺りを観察した。
予想もしなかった場所に僕達はいた。
大きな鳥の巣が、一つ、また一つと見つかった。
89)
全身に戦慄が走ったせいで、括約筋が絞まり、雲古が切れた。
手の甲の震えが、甲を覆うヒトミの掌に伝わり、体を一回りするのに数拍分の時間を要してから、戻ってきた。
震えの理由を伝えるために、かぶさっている掌を下から持ち上げて濃い黒の一つを指差した。
ヒトミを窺うと、その掌を持ち上げて、僕のとがった指を覗きこみ、それから不思議そうに僕を見返した。
あれだ、あの鳥の巣みたいな塊だ。
右手の人差し指で宙に円を描いてから突き刺すまねをしたら、ようやく目の焦点があったようだが、それがどうかしたのか、という表情を僕に見せた。
ヒトミが、僕の知らない機会に、赤ん坊ちまきを作るなり運ぶなりする手伝いをしたことがあるらしいと察せられた。
僕が奴隷だった頃の記憶によると、普通、死んだ赤ん坊は、土砂と一緒に側溝内を蹴られながら進み、崖下へ、あるいは蛇篭の向こうを流れる下水用の小川へ捨てられる。事情によっては木や竹の皮に包まれて抱えられ、あるいは引き摺られていくが、捨てられる場所は同じだ。大人の場合と変わらない。
だが、包むだけではなく紐でちまきのように巻くことが稀にあった。異常児に対してだけはそうしていた。僕は包んだり運んだりしたことはない。坐りこんだ奴隷が赤ん坊を小突いてからスポンジを捨てる場面を見たことはある。
なぜ特にちまきにするのかはわからなかった。仲間の奴隷に訊いてみたが知っているらしい者はいなかった。そもそも彼らに、何? を伝えることは比較的容易だが、何故? を伝えることは、はなはだ難しい。
普通に捨てれば異常が再生すると恐れているから、と想像することはできる。簀巻きにして川へ沈める場合と同じく、ちまきにすることは共同体からの追放を意味するのだろうか。木に結わえると、森の者として、いや、木となって再生し、自分たちのところには帰ってこないと思っているのか。
だが、文化人類学の対象になるような、古代的で呪術めいた幻想を、施設内での近代的な教育環境の下で育った彼らが持っているとしたら、一種の退行に陥っていることになる。それなりに合理的な現体制にショートカットを辿って行き着いたように見えることと矛盾する。
短く、直線的で、幅広い理念の幹線道路と並行して、長く、こみいった、狭わいな現実の路を歩んできたせいだろうか。
その行程から、何ものかを感じとり、共同の心情を具現する習俗を急速に成立させたのだったなら話は別だ。
具体的な旅の行路は彼らと僕とでほぼ同じだったとしても、集団と個とでは、早い定着と遅れた闖入とでは、効果が異なるだろうから、それはありうる。



