ネヴァーランド
さて、現象としては一個で一回限りである帝国についての、相対立する二つの解釈を、どんなふうにして複数の変異からなる鎖で結べばよいのか。楽園、楽園ダッシュ、楽園ツーダッシュ、……、楽園エムダッシュ=地獄エヌダッシュ、……、地獄ツーダッシュ、地獄ダッシュ、地獄となるように……
おっと、僕は、前につんのめって、顎と胸から先に、泥の床に倒れた。ヒトミも道連れだ。耳が地面のそばに来たので、雨音の響きは強まり、興奮したこびとたちが小太鼓を連打しているようだ。
痛くなんかないよ、ヒトミ。だいじょうぶだ。タダヨシ? そうだ、僕はタダヨシだ。もちろん目は覚めてるよ。
助けられる前に立ち上がってヒトミを助け、かき抱いて進む。だが、語りかけることはやめない。いや、独り言が止らないのだ。
……幸せな共同体は皆ワンパターンに幸せだが、不幸な共同体は、それぞれが独特に偏って不幸だ。楽園が白色光線だとすると、地獄は虹のように多彩だ。不謹慎ながら言ってしまうとなんとも魅惑的だ。
市民に、ここが楽園か地獄かどっちなのか訊ねてみたとすると、全員が楽園であると断じるだろう。その根拠は同一だろう。多小ゆらぎはあっても、それは全体としては同一性に貢献するはずだ。
奴隷のいくたりかと僕は地獄であると答えるだろう。その根拠は様々で互いに独立でゆらぎがない…、と希望する。地獄A、地獄B、地獄C……、があるのだ。結局、楽園と地獄A、楽園と地獄B、楽園と地獄C……と、複数本の連鎖を構築しなければならない。つまり、地獄を腑分けし、楽園がそれぞれの地獄とどのように通底しているか、その道筋を一歩一歩辿って行くのだ。ではまず、ここの現実がどういうわけで地獄Aであるのかというと……
ところが、地獄Aを理解し表現しようとすると、僕は軽いめまいに襲われた。
なんたることか、急に言葉が出なくなった。冷静さが失せていく。苦手な雰囲気になった。怒りと悲しみがじわじわこみ上げてきたからだ。怒りとか悲しみとかの言語符牒などはもうどうでもよく、むしろ邪魔だった。なじみのない何やら奇態な或るモノがこみ上げてきて、対処療法的になだめすかして抑える手段をあたふたと探す始末となった。
ひとまず打ち切りだ、ヒトミ。聴いてくれてありがとう。聴いてくれてなかったとしてもありがとう。
洞窟の入り口は、泥水のシャッターが下りたようで、くぐるのには若干の勇気を要した。頭を音が出るほどに叩かれて屈辱的だった。これまでは全方向からだったが、今やうって変わって、前後からだけ、雨と雷の音が襲ってきた。似た声の二人の者が、かわるがわる呼びかけてくるように。
僕は奇怪な錯覚にとらわれた。
父がしゃべっていたのか僕がしゃべっていたのかわからなくなったのだ。
今までありがとう、お父さん、もういいよ、とうそぶいて、闇に向かって跳躍したのはだれだったんだ?
別れてからもつながりは切れなかった。むしろ深まっている。幸か不幸か……
88)
ヒトミの肩を抱いたまま、ホールでしばらく雨宿りをすることにした。右足がやはり疼く。
ホールの天井に開いている明かり採りから、冷たい風と雷鳴とともに、泥水が降ってくる。真下の浅いプールから側溝に排水路が延びており、その流れは速い。
ホール中央よりやや玄関寄りに、ヘビの頭蓋骨が山車のように安置してある。二名の番兵は、眼窩に後頭部を載せ、頬骨に背をもたげ、顎骨の縁に腰を下ろしていた。浅いプールからは充分離れているが、玄関からの雨の跳ねを嫌がり、退避したのだ。
僕は、抱いていた手をほどくと、やつらを無視して、ヒトミの体についた雨水を払ってやった。ヒトミは、ありがとう、といつになく上手に言えたが、三白眼をすまなそうに向けながら、手の圏外から下に外れ、転がって水を床に吸い取らせた。僥倖にめぐりあった蚤達が跳んで、ヒトミの凹んだ腹の陰に嬉々として隠れた。
番兵が何かを言う前に、僕はやつらを既に睨んでいた。番兵1は小さく開けた口に始末をつけるために、喉を無理やり鳴らしてから肩越しに痰を吐いた。番兵2も真似てツバを吐いた。
雨は、もう気が済んだとでもいうように、突然止んだ。
ホールを出て、斜面の下の側溝に沿って広場の縁を通り、薄暗がりの中を水飲み場へ向った。地面からも、斜面からも、戦闘用として側溝の傍らに積んである岩や石からも、湯気が立ち昇っている。地面からの湯気を追っていくと、目の高さほどで消えてしまい、見えない湯気をさらに追えば、紺青の空に、まだほとんど点である星が散乱していた。深夜には各々が大目玉となって厳しく僕を見下ろすはずだ。
空の色に染みたような青い月が浮かんでいた。排卵日をつい先日告知したので、満月には瑕瑾がある。女たちの下腹の奥では今や受精卵の卵分割が猛烈なスピードで進行中だ。
右手の斜面を曲がりながら登って行く道は、石灰岩の採石場に通じている。粘土と石灰の粉が混じり、ココア色となった水溜りが、あちこちに出来ていた。広場では、洞窟から掻き出された土砂の一部、踏まれた雑草、吹き溜まった落葉などが表土となって、その上に石灰が散布されているが、ここではそういうものは頻繁なスコールによって急斜面を押し流されて存在できない。
僕はヒトミを道の分岐点で留めておいて、側溝をまたぐ頑丈な丸太橋を渡り、右側の道を五、六歩たどってから、左足の踵で、いい機会だとばかりに思い切り地団駄を踏んでみた。
案の定、硬い。セメントだ。舗装道路になっている。
もしかすると、広場の表土の下には、岩同士をセメントで補強した巨大構造体が隠れているかもしれない。
僕は分岐点に戻り、かれらが漆喰やセメントを意識的に使ってきただろうか、そうするよりは、石や岩がこれほど豊富にあるからには、石灰を粉のままで使う利用法の方を優先順位として高く置いたのではないか、と想像しながら、まっすぐ伸びたほうの道を進んだ。
スコールは止んだが、とってかわった蝉時雨は充分暗くなるまでは止みそうにない。あるいは、月がとっても青いから、夜が来たとは気づかぬまま、地球が充分回って日が月にとってかわるまで続くかもしれない。
腐植土を踏むたびに、滲み込んだばかりの雨水が吹き出て、足の裏をくすぐった。雨で叩き落されたうつ伏せの蛾が、しきりに胸を持ち上げようとしていた。翅が落ち葉に張り付いているので、思うに任せない。蜂は、仰向けでもがいている。
林が開け、泉に着いた。雨を嫌がってか、水を飲みに来ている者はいない。
ヒトミと並んで身を屈めた。暗い水面に映ったお互いの上半身をじろじろ見較べてしまった。息を止めて両手で水を掬い、顔にかけた。手で感じるよりはるかに冷たく感じる。はっと何かに気づかされた感じ。指と爪を使って歯を漱ぐ。ヒトミにも以前から教えてある。
斜め向こうの岸壁の上に、見張りが坐っている。岸壁と同じ体色のブラザーだ。かつてはあそこにチャーリーがいた。屋根代わりのバナナの葉の下で微動だにしないが、僕らを半眼で盗み見ているのはわかっている。
チャーリーはいつも歌っていた。ヤツは歌うか?
僕はヤツに向かって大声を挙げた。
ぶっぶぶぶーっ、ぶいぶい。
見向きもしない。愛想のない野郎だ。ヤツは泳ぐか?



