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ネヴァーランド

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戦勝祝賀会が続いた時期に、時々、眠くないのに、酔ってしまって、眠りに引き込まれた時のことを思い出した。井戸の底へ、いや、宴の池の底なしの深淵へ、引きずり込まれそうになり、いっそこのままという誘惑へのいやだ、も含めて、いやだいやだと、抵抗を試みたっけ。
僕らは死そのものを経験しない。経験するのは死の直前の事態だ。
僕は、宙に漂う左手を両手で捕まえた。左手で、握手をしたまま、右手を伸ばして肩をつかんだ。今度は僕が揺する番だ。
揺すったのが悪かったのか、緑の胆汁が酔っ払いの口からほとばしり出て、僕の左腕にかかった。生暖かい。急性膵炎? 急性増悪? 
続けて、どす黒い血を吐いた。勢いはないが止らない。口のまわり、首筋、胸が血だらけになった。内臓の鬱血が原因で生じた動脈瘤が破裂した可能性がある。 膨れた腹がさらに膨れてきた。内出血している。股の隙間が汚れてきた。肛門からも下血している。口から、肛門から、流れる血は床に沁みこんでいく。
両手で両肩をつかむ。もう揺すらないことにした。
話しかけ続ける。現世から退出しようとしている酔っ払いを、絶望的に追いかける。
話題を具体的な事柄に限定し、感傷に陥らせないように、こちらも陥らないように注意を払いながら、現世に引き戻そうと、大きな声で呼びかけた。
僕らがすごした少年時代のこと。施設ニッポン。高層アパート。体育館。ジャングル。大河と滝と湖。家庭。戦争……
君がこのあいだのプルタークに参加したかどうかは知らんが。どうだったんだい。はははっ。隠すなよ。
聞いているのか? おい、聞けよ。
ワ。
何だって?
ワッ。
わ? わ、がどうかしたのか?
ワスレタ。
酔っ払いは聞いていた。しかも、忘れたと答えたのだ。
ミンナ ワスレタ。 
みんな忘れただと? そんなこと、あるかよ。ふざけるな。この期に及んで、おちょくるなよ。
ワスレタ。ミンナ ワスレタ。
ああ。僕は暗澹たる気分になった。反論する気は失せた。
記憶の蓄積とその想起は、個別に独特だ。我という現象を、経験内容の総体としてとらえることができる。
一方で、形式としての個が存在する。パースペクティヴ、遠近法としての我だ。その意味では、我は世界でただ一つしか存在ない。仮想実験によって、二つの我を取り替えても、取り替えられた両者は気がつかない。その理由は、この同型性にある。
内容から規定される我を迷妄だと忌諱し、これから逃れようとする者は多い。
彼らが殺到する場が自然科学だ。科学は、それを言っちゃあおしめえよ、といったベタな認識方法に過ぎないのに。
とは言っても、科学もまた遠近法が変装した理念から逃れられないだろう。程度の問題、はかない努力……
さて、酔っ払いは、なまなましくも、みんな忘れたとほざいた。つまり、全員が共有する、しかし空っぽの、形式としての個しか残っていないと主張していることになる。
この告白は、帝国市民の強固な共同性から推して、残念ながら例外的とは思えない。僕の同類の多くの者が同様の証言をしかねない。
死の直前には、一生の出来事を短時間に思い起こすなどという豊穣は経験せずに、こんなにも普遍的で、惨憺たる、すっからかんの状況におちいるものなのか。
こういう認識の可能性に至らせた酔っ払いを、僕は恨む。知らないほうがよかった。
……ワ。
わ、はもうわかってるよ。忘れた、だろ? かんべんしてくれよ。たのむよ。
ワッ。
ワタシ。
ん?
ワタシノ。
僕は震えた。震え上がった。酔っ払いが、何かを言うぞ。
ワタシノ トオイ コイゴコロ。
なんだと?
ワタシノ トオイ アイゴコロ。
きみ、そんなこと言っちゃ、いかんだろう? 例外を許しちゃ、ダメじゃないか。
そう言いながらも僕は夢中になった。
ワタシノ サイゴノ コイゴコロ。
慌てふためき、問い返す。
もちろん女だよな。
うなずく。
空っぽの容器の底にわずかに残っていたものがあったのだ。それが今まさに現れるところだ。
昔の恋人?
首を横に振る。
じゃ、女房のことだね? うちを教えろ。連れてってやる。
首を横に振る。
ちがう? 
ちがうって。
まさか……
今や、丸く見開いた目いっぱいに広がる、らんらんたる黒目が、僕の目を視線で突き刺していた。
体が波打ち、水鳥の鳴き声のような、おならの音が聞こえた。
僕を凝視したままなのに、酔っ払いそのものは、突然かき消えた。

僕は腰を上げた。
ヒトミの手を引き、下を見ないように気をつけながら立ち去った。
パトロールしているブラザーたちが見つけて、清水の舞台まで引き摺っていって、投げ落とすだろう。下に着いた時には割れて音を立てるはずだ。
鳥辺野の火が燃え移り、焼けてしまい、やがては、黒い炭となった肉体の残骸も朽ち、岩にこびりついた油の焦げ跡も薄れるだろう。

86)

ホールを横切り、モーゼ専用のステージである蛇の頭蓋骨を回り込んで、アーチ状の玄関口にやってきた。左右にブラザーが足を投げ出して座っていた。上半身をくねらせながらなにやら卑猥そうな言葉を割れた声で投げ合っていた。僕らが広場へ出ようとするとき、両者揃って顔を大げさに外へとそむけた。
広場は、玄関口を頂点にして左右約百五十度に山腹の斜面を押し分け、清水の舞台を縁にして、ほぼ水平に広がっている。実際は掘削作業の際に出た岩石や土砂を積んで固めて前方に張り出させたテラスだ。鳥辺野の煙は、湖からの風に吹き散らされ、偶に視野をかすめるに過ぎない。眼前に広がる大パノラマが僕を引き寄せる。
高所恐怖症が出ない程度に、縁からの距離を保って、清水の舞台に進み出た。ヒトミはすぐ後ろからついてきているはずだ。
前方を見たままヒトミに語りかける。
ヒトミ!
膝の骨と踵の音で、ヒトミが跳び上がったのがわかった。
君はどこから来たのか?
返事がない。
あそこあたりか?
僕は湖の対岸の青灰色の山並みを指差した。
奴隷になる前のことをヒトミに訊ねたことはある。白状しなかった。通じなかったのか、とぼけていたのか、記憶を失っているのか。強いて知る必要もないのでその話題には以後触れていない。
ヒトミは、黙ったまま、僕の前に出て、指差したほうに向かって、胡坐をかいて坐った。手のひらを胸の前で合わせたようだった。これははじめて見た。どんな意味がこのしぐさにあるのだろう。民族的な伝統からくるのか、即興なのか。痩せた背中の産毛が風になびいている。温気に蒸れる広場にいるのに、肩をすくめているせいで、なにやら寒そうだ。寒気に襲われるような何かを思い出した可能性もある。
その背中に向かって、語りかける。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦