ネヴァーランド
さらに悪いことには、これまでの経過からシミュレイションしてみると、朱雀通りの天井が朱雀通りの床に向きを逆にして自己接着しているという推定ができた。それは息の詰まりそうな閉塞感を生んだ。恐る恐る見上げると、ああ、朱色の地肌の上にヘビの皮膚の粘液が固まってコウティングされている天井に、僕の下半身が吸い上げられていく。床から上がる首と同じ速さで消えていくので、僕の上半身は、僕の下半身に決して追いつかない。
循環に拘束されているという意識が強まり、たとえ目覚めてもまた夢の中にいるという悪無間の恐怖に取り憑かれ、水中の苦しまぎれの身もだえもよみがえり、息が出来なくなり、ついに僕はたまらなくなって悲鳴を上げた。
悲鳴が身体の内外両側から聴覚を刺激し、最終的に目を開けさせ、何度目かの朱雀通りに僕を着床させた。
体が切れたままで止らなかったことは幸運だったものの、中途で止ったという感じはぬぐえない。ルーレットがため息つくように回転をやめて、僕はたまたまあるポケットに入ったが、こんな半端な現実はあるはずがないといういやーな感じ。そのうちルーレットは再び回り始めるだろう。
極端な騒擾から極端な静謐へ戻ってきた。
行く、は、一瞬で、急速遮断、シャッターがあっという間に舞い降りて遂行されたが、帰ってくるのには往生した。シャッターがゆるゆる開きながら、僕もその下辺につかまって上昇し、やっとたどりついた。往くはよいよいだったがかえりは怖かった。
ヒトミを抱いていた記憶があるが、今はヒトミが僕を抱き、ひたすら揺すっていた。
僕は、ゆれて、ゆれて、気がつくと、ヒトミの腕の中だった。
タダヨシ、目が裂けたかい? タダヨシ、目が裂けたかい?
僕はヒトミの裂けかねないほど見開かれた潤んだ両眼を見つめながら、後頭部を親指で押し、人差し指と中指でその右耳を掻いてやった。
ああ、目はさめたよ。ヒトミが見えるよ。大きな眼だね。頭のくせ毛が揺れてるね。
ヒトミには耳たぶがないので、上側の、突き出て広がる蝶の翅に沿って、行ったり来たりさせた。そこだけはいつもかさかさだ。皮膚片が粉となって落ちたかもしれない。
一方、腕と胸と肌にへばりつく汗に溶けた垢は、官能的でエスニックな臭いを発し、回想の中で朱雀大路に充満していたあの臭いが変身したのかと疑った。
耳を澄ましても、泣き声と三通りの息の音しか聞こえない。
僕ら以外には誰もいない大路が延びている。
僕は警戒しながら辺りを見回す。多くの者たちの姿が消えたのは、酔っ払いを前にしての現実から、これはたまらんと回想に沈淪したときと同様に、僕がその回想からさらに別の恣意へと逃れただけだからではないか。
ライオンに追われるダチョウは、逃げ切れないと悟ると、砂に頭を突っ込む。ほら、ライオンはもういない。
この時点、この地点で、僕がダチョウでないことを保証する手掛かりを見つけようと足掻く。で、デカルトにたまたま一致し、この飢餓感こそが確実な現実性を保証するのだろうと暫定的に自らを慰めた。
その上で、僕は自分に言い聞かせた、朱雀大路は厳然としてここにある、と。
だが、それはまだ背景としてあるに過ぎなかった。
役者達が退出して残された舞台背景は、きっかけがあればすぐにも再演を始めたがっているようだった。壁も天井も床も、役者たちの不在を辛がり、嫌悪し、あの乱痴気騒ぎ、おぞましいプルターク劇を噴き出そうと、てぐすね引いて待っていた。
背景の部分部分を注視するたびに、それらはやっと僕が脱出してきたばかりの過去を誘発し、漏らし、あげくはあたり一帯を席巻しようとうかがっていた。僕を再び絡めとろうとして、膨れ、もう今にもはちきれんばかりで、僕の見つめた焦点を好都合の錐の穴だと見做し、そこを突破口にして氾濫をたくらんでいるのが明らかだった。
現に、あそこに見える竹橋の上に今にもブラザーが蘇り、戦争でたくさんの新しい奴隷が供給でき、古くからの奴隷をぞんざいに扱う風潮が蔓延しているのをいいことに、跳び下りて、音を立てて奴隷を踏み潰しそうだ。僕だって円錐に盛られた石灰の上に坐っているかもしれない。
危うくこちらもサラな画布に挑発されて絵の具を塗りかねないほどに、風景にひそむこの潜在力がこうも強いのはなぜか。
体験そのものの異様さのせいではあるが、異様な体験は他にもある。
実際に体験したことを、回想によって克明に再び体験したために、反復による学習強化がなされたからだろう。恐らくは、今後も三度、四度と繰り返され、記憶は強化され、一度だけに過ぎない今に比べると、はるかに強力な現実性を獲得するに至るだろう。僕はほぼ毎日朱雀通りを歩く。そのたびに、一部分でも再現されれば、その蓄積はどれほど確固たるものになることか。
同じことが未来に起こるのも確実だ。近い将来、再び戦争が勃発するだろう。様々なパフォーマンスとプルターク行動がその後に続くだろう。強化されていく過去と確実な未来の狭間、今のこの不確定でほとんど不可知の一瞬に、僕はなにをできるのだろうか。
過去のことであれ、未来のことであれ、それがおぞましいならば、忘れようと努力すればいい?
それがそうはいかないのだ。潜在力が強い理由がまた別に存在するからだ。
あれ、は、まことらしい、からだ。
馬鹿げた戯けとは思えないからだ。
まことらしい、とは、概念が満たすべき無矛盾性を備えていそうだという意味だ。あれ、には、現状で求められる限りでの、合理性が貫徹していそうなのだ。たとえ、迷妄にさ迷いこんでいるとしても、フザケていようとも、それは外部の者である僕の目から見てのことであって、彼らとしては自らを整合的であると見做していて、そんなことは当然過ぎて意識さえしていないようなのだ。
数学の世界では、内部矛盾のない概念はそのまま存在することになる。使われる語句は厳密に一意的であり、論理は、誰もが納得する少数の記号からなる列で記述できるほどに一般的だ。ところが、語句と論理への厳しい要請をクリアーしたとたんに概念は存在してしまう。論理的なものは即座に現実的なのだ。
ここで問題が生じる。
存在の乱立、存在の野放図という問題だ。
全方向に、存在の系列は延びていくことを許されている。リードするのは、畢竟数学者の美意識にすぎない。
美意識の横行の末に、数学は、錯綜する存在の系列の整合化に腐心する羽目になる。自縄自縛に陥る、中世スコラ神学と同じように。
僕は、数学の勉強をしながら、この点を残念に思ってきた。数学が、俗世、つまり物理世界に、狂気のような仮説として、現実化するようにと願ってきた。外をめがけて試みてきた。かつては、狂乱のグルッペンペストもあったではないか。
あれ、は、内部矛盾がない故に当然のように存在し、俗世、つまりこの帝国として、狂気のような退廃として、現実化している。
僕の願いとパラレルなたくらみが既に先行して現実化し、こんな結果をもたらしている。
だからこそ、僕には格別におぞましい。
……嫉妬はないと思う。
退廃世界の駆動機関である死と生、戦争すなわち命の消費蕩尽交換と、集団交合すなわち市民軍事力再生産を、連発で僕は見てしまった。これ以上見るに値するものはないほどの大事を見てしまった。