ネヴァーランド
左肘を折って、右手を突き放し、仰向けになって腹越しに池を見ると、案に違わず両生類が逃げていくところだった。脚が押す水が紋をなし、その向こうに、二つの目のこぶが水面から突き出ていた。僕は何をされるところだったのだろう。
体を起こして辺りを見回した。市民達はいない。宴の惑乱は朱雀門の向こうに去って、ざわめきと管弦の音が聞こえてくるばかりだ。
大内裏ホールの壁に沿って、点々とブラザーが褐色の列柱と化して立っている。無言で不動の姿勢をとっているが、垂れた瞼の下から僕を見ている、と思う。
風穴から垂れ下がる茎や根の束が、やはり垂れてくる水と光を浴びて輝いている。光を浴びた束に水がまとわりついているのか、水に濡れた束に光が反射しているのか、どちらなのだろう。
池の縁の最も低い部分から、細い水路が流れ出て側溝へ至る。
垂れてくる水も、流れ出る水も、かすかに音を立てる。垂直の音は高く小さく、水平の音は低く大きい。出る水の方が、入る水より多いことがわかった。両方の差の分だけの水が、湧き出ているのだ。アルルカンの落下速度や、僕が潜水した際の抵抗感も、湧き出ていることとは矛盾しない。
水飲み場、鴨川、そしてここ宴の池、ほかにもあるだろう。それらを鑑みると、このあたり一帯を複数の湧水の路が縦へ横へと立体的に通じているようだ。
体を再び横転させ、両手を突いて立ち上がろうとして、軽い貧血状態に陥った。
中腰のまま重力を強く意識し、疲労と混同する。鼻と顎からしずくが滴って石灰と赤土のまだら模様に黒い点々をつけていくのにしばし見とれる。
背を恐る恐る伸ばすと、しずくは胸にもつくようになり、僕は重力を忘れる。
朱雀門に向かって歩み出すと同時に、右目の隅に立っていた列柱の一本も、僕に向かって踏み出した。
直進する僕をめがけて近づいてくるので、その軌跡はほぼ正確に二次曲線を描いている。
息の音が聞こえるほどまでヤツが近寄って来たとき、両手を開いたり握ったりするのが見えた。僕のどこかをつかもうとするらしい。僕は、首を左右に振り、歯をむいて見せた。ヤツは立ち止まり、恨めしそうに僕を見送った。
朱雀門の両脇にはブラザーたちが立ち並び、門のすぐ向こうにモーゼの盛り上がった背中が見えた。
特に制止する者がいなかったので、僕がモーゼの横に並ぶと、モーゼは前を向いたまま僕の右手首を強く握った。そうされると、それまでは、無駄ではあっても振り払おうとしてきたのだが、今回はそうは行かなかった。特に強く握られたからではなく、目の前の光景に呆気にとられたからだ。
特攻隊帰還兵は向かって左側、戦争未亡人は右側に一列に並んで、向かい合って立っていた。時々順番が入れ替わり、揉めることもあり、白っ子数名が、大路を行ったり来たりして調整していた。
白っ子の判断にまで抵抗する者はいない。白っ子の権威が大きいのでそれに従う、というよりは、所詮たいした差はないというふうな執着の不徹底によって、あえて抵抗はしない。どうせまた繰返しだから、という諦念が、身振り口ぶりに露わに出ている。
列は羅城門のすぐそばまで続いていた。そこでは、路の真ん中で楽隊が演奏を続けていた。小モーゼが跳ねながら指揮をとっていた。
そのまた向こう、羅城門の下には、統一センター試験を終えたばかりの若者が、二段三段に重なって群がりあふれていた。隠れられるところを探してはマスターベーションをしまくる少年達や、まだ指折り数えるくらいしか来ていないメンゼスを憂鬱がる少女達だ。見物人ではなくあくまで学習者である素振りを貫いている様子が、痛々しいほど嘘くさい。
大路の左右から、たくさんの笹竹が斜めに延びて、微風になびき、乾いた音を、さささ、ささらさら、立てていた。
側溝に刺さった根元には、奴隷達が身をこごめ、息を潜めていた。
路の中央に石灰が小さく盛ってあり、笹竹と同じくらいの間隔で羅城門まで点綴していた。
向かい合った男と女は、体を小刻みに揺らし、意味不明の掛け声をかけあい、意味の明らかな臭いを発していた。
一組の男女の掛け声に注意を払ってみた。互いに、自分はこれからこうするああすると、呼ばわっているに過ぎなかった。
モーゼは僕を男たちの列の端にひっぱって行く。
いてーなぁ。何するんだよ。
女たちの列が動揺し、僕の向かい側に、口が半開きの、呆然とした表情の女が現れた。
モーゼは手を離し、肩甲骨の間を強く押した。
僕は一歩よろけ、二歩目で踏みとどまって、眼前の浮舟を見た。
僕を覚えているはずはない。ここに来てからの僕のことも覚えているかどうか怪しい。
浮舟は、僕を不思議そうに見つめている、この男を全く知らないわけではなさそうだと考えているかのように。もしかして、かすかな記憶が無意識から上昇し、それに促され、酔った勢いで僕を検分しにきたのか。
痩せてやつれて、目の下に隈が出来、乳房が細長く垂れている。かつて僕の部屋の真ん中で、顎を突き上げ、悩ましげにそそり立った長身の美少女。その痕跡すらない。時が経ったのだ、哀れ。
さらに何かの感情が湧いてくる予感があった。そうなる前に、僕は言った。
よく覚えていない、いや、よく知らない男の前に来るのは、おかしいよ。
小さなかすれた声で、かなわんわあ、と返ってきた気がする。
だれかが、僕の胴体に、後ろからしがみついた。腕の位置とその細さからヒトミだとわかった。僕は、巻きついている腕をずらしながら後ろを向き、ヒトミの背中と後頭部を抱いた。こいつめ、また泣いている。
モーゼは、腕を組んだまま目を細めて僕らを見下ろしていた。笑いたくても笑えないもどかしさのせいで、胴体をくねくねと左右にねじっていた。
ヒトミの頭越しに、モーゼに言ってやった。
そうだよ、君が思っている通りだ。僕はホモだ。ホモ野郎だよ。ホモのどこが悪い。ヒトミと一緒に暮らす部屋を用意しろ。でないと教えてやらないぞ。
寄って来たブラザーたちに、憮然たる面持ちのモーゼが何か言った。やつらは、横目でこちらを眺めては次々につばを吐いた。
ふん、おまえらのうちにもホモはいるだろうに。
目を逸らして振り向くと、浮舟はいつの間にか消えていた。
モーゼは僕達への関心を失ったらしかった。市民達と羅城門に向かって得意のポーズをとった。両腕のなす?字が、朱雀大路の天井の両辺を垂直に指した。発した大声は、大路の壁に反響し、笹の葉を震わせ、男と女を奮い立たせ、羅城門にぶつかった。
産めよ、殖やせよ、地に満ちよ!
産めよ、殖やせよ、地に満ちよ!
奴隷達が竹の根元を抜き、大路に横たえた。笹でさえぎられたたくさんの小区画は集団交合の閨房となった。
施設のモニターで読んだプルターク英雄伝を思い出す。施設EU内で書かれた伝記だという。もちろん父の検閲が入っていただろう。ギリシャとローマの英雄を一組ずつ対比して記述してあるので、英雄達だけでなく両方の社会の風俗も知ることが出来た。ドギーは退屈だと言っていたが、僕は冒頭に女族アマゾンが登場するやたちまち夢中になった。