ネヴァーランド
何万年、何十万年をかけて風穴から滴り続けた水が穿った穴は、パイプ状で極めて深い。水は純粋H2Oと見まがうばかり。見ようとしても姿は見えず、水圧だけが存在する。スーパーカミオカンデはこんなところなのだろうか。腸内寄生虫のような白い髭根が僕を怪しみながらゆっくりと踊っていた。それにもぐりこみ捩れた幹根を痺れた手で繰りながら逆立ちで、底のように見えていた段差を過ぎ、池の中央に口をあけた深みへとさらに潜っていく。髭根の切れる音がする。幹根が細くなり、ついに尽きても、どんどん潜っていく……
なんということだろう、底がない!
水面から遠のいたので水苔がもはやくっつけなくなった周囲の壁は、その実体を露わにした。硬化したスポンジのようだった。大小無数の横穴が開いていた。
ここは溶岩の噴出孔だ。溶岩が湧き上がって吹き飛んだ後の空洞だ。風穴は大型哺乳類があけたものではなかった。もともとあった小さな火口だったのだ。
ああ、間違ってた、間違ってた、まただなあ。
大型哺乳類は、朱雀通りを掘ってきて噴出孔につなげ、連結地点の周りを広げて大内裏を作ったのだろう。火口から先に入った後に、向きを九十度転じて斜面に向かったのかもしれない。
脳の中のカウンターが潜水を始めてから二百拍を超えたと告げる。僕は、鮎も両生類も潜って来れず、目に見える生物はもう存在しない所に来てしまった。
逆さに吊るされた僕が仰ぎ見るのは暗黒だけだ。夜空が醸し出すあの不安な浮遊感に襲われた。方向感覚が狂い、酩酊に陥りかける。かなたにある彼岸。そこに向って緩やかに下りていく、濃度の高い黒が、かすかに見えた気がした。兵士として戦場で死に損なった男はこんなところでドジを踏んだアルルカンとして死んでいくのか。いやいや、もう、として、はないだろう。すでに僕は息が続かなくなりかけていたが、このままあいつの後を追って下りていきそうになった……
タダヨシ、と誰かに背後から呼びかけられたような気がした。何をしようとしていたのかを意識してゾッとした。
自らを叱咤した。体を反転させた。さらば友よ。
やっと幹根の先端が垂れている所まで昇ってきた。反転のチャンスが遅すぎたようだった。上まで保つかどうか自信がない。
救済者を求めるように見上げたきらめく水面の向こう側を、不吉な黒い影が横切った。酸素不足で視覚に障害が出てきたのか。死神の到来か。
幹根をかきむしりながら上昇する。体に巻きつく髭根が死へ誘惑する。パニックに陥りそう。苦しくて苦しくて、笑いの直前のように横隔膜が痙攣し始めた。ああ、決壊する、気絶する、それとも笑うのか……
額と頬が空気に触れたようだった。
助かった、助かった。
いったい誰に感謝したらよいのだろう。
のけぞって、喉と肋骨の軋る音を聞きながら息を吸い込んでいる僕の頭上を、黒いプテラノドンの両翼の間に褐色の小モーゼが胴体としてぶら下がって滑空していた。はあ、はあ。迷い込んだプテラノドンを殺して食った際に、翼を残しておき、翼の骨同士を竹で連結してハンググライダーを作ったのだ。はあ、はあ。小モーゼはそれにぶら下がり、池の中心軸である蔦の束の周りを廻る。はあ、はあ。腋の下で竹を抱えこみ、首には枯れた葦で編んだバスケットを下げている。はあ、はあ。
アルルカンとは大違いで、喝采を浴びていた。はあ、はあ、はあ。
確かに芸の段取りは遥かに小モーゼの方が周到だ。はーーあっ。
面白がりながらたぶらかされている市民には限界を感じたが思い直した。たぶらかされている振りをして、小モーゼの有用性は認めているのでこのパフォーマンスを許しているとしたら? では、どんな有用性なのだろうか? はーーーあっ。
グライダーは両生類の背中に巧みに着陸した。翼が海苔のようにそのわき腹に張り付く。両生類は体を回転させながら前足で翼を引っつかむと食い始めた。はーーーーあっ。
小モーゼは、両生類の頭を踏んで跳び下りた。踏まれた首がばね仕掛けのように跳ね上がったので、小モーゼは余裕を持って前方に一回転して着地した。さらに、腹に落ちてきたバスケットから何かをつかんで取り出し、ばら撒いた。きらめく金粉だ。それらは落ちずにあたりを漂った。蛍だった。金色に光る稀少種だ。両生類は、即座に関心の的を切り替え、喜びにうち震える舌を長く伸ばして、点滅する蛍を巻き取った。高みに舞い上がろうとする蛍を追って大ジャンプ。張り付いていた翼が剥がれ、斜めに翼を広げた珍奇な翼手竜となって、瞬間、空中で静止した。
両生類の騒動を尻目に、満足そうに観衆を見回していた小モーゼが、首の回転を止めた。水面を這う茎に上半身をもたせかけて、まだ息も絶え絶えでいる僕に、顔を向けていた。その顔面には二匹の蛍が水平に並んでとまっていた。いや、その両眼が金色に光ったのだった。ヤツは口をゆがめた。
後で気がついた。薄ら笑いだった。朗々たる哄笑ではなく、うまくいったわいというほくそ笑みだった。帝国の誰よりも早く笑いを身につけたのは小モーゼだったのだ。
小モーゼは内裏に向かって右腕を差し伸べてキューを出した。十人ばやしは、BGMを演奏しながら、一名だけを残し、静々と朱雀門に向かっていく。愛想を振りまき切ってから、小モーゼは駆け出して、楽隊の先頭に立った。
ブラザーズが、内裏正面の壁に頭をつけて積み重なり、三段のやぐらを組んだ。モーゼがそれを駆け上がって内裏に立った。居残っていた白っ子が、笙の笛を腹に抱えてモーゼの足元に蹲った。モーゼは両手を差し上げて?サインを作り、その姿勢をアヤカのように保ったまま、こぼれ落ちるほどに巨眼を見開き、満場の市民を睥睨した。途中で一度もまばたきをせずに、空虚なのか意味深長なのか判断のつきかねる、奇怪な混交体の演説をぶった。
最後の一句は正確にわかったが、それ以外は相変わらず見当をつけながらの聞き取りだった。
われらが誇りである白軍兵士諸君の帰還をここに祝す。
勝利はわれらの頭上に燦然と輝いた。
わが国土の安全は磐石のごとく保障され、繁栄に限りはなく、国民精神は軒昂極まりない。
白軍によってもたらされたこの恵みを、深い感謝の念とともにミナで享受し、明日の幸福をも開花させる種子とせム。
われらが白軍は永久に不滅デス。
新たな神話が創られた。
良きかな! めでたきかな!
さらに進め!
子孫らが誇りうる伝統を残すべく、この今を、歴史の必然にのっとり、敢然と生きていこうではないか!
楽園に幸あれ!
繰り返させていただこう。
いくら繰り返しても繰り返し過ぎることがない感謝を繰り返し白軍兵士諸君へ!
どの兵士もわれらを凶暴至極な夷狄から守るために戦い、
どの兵士もわれらの力と栄光を満天下に示すために戦い、
しかして、どの兵士も、女性方にとっては、胸ときめきの英雄であらせられる!
勇者のみが美女に値するのだ!
女たちが嬌声を挙げ、手をたたき、足を打ち鳴らした。男達は、気乗りしないふりをしながらも、満更でもなさそうだった。魚も両生類も風も池も植物も、異議がないらしい。
ようやくこの段階で、これから隠微きわまりないことがくりひろげられるとわかった。
僕だけが知らなかったことにまた出会うのだ。
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