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ネヴァーランド

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「魔物なんかいない。あれは魔物じゃなかった。君は現場を見ていない。みんなが言っていることを繰り返しているだけだ。そばでよく見ていたなら、本当は僕が退治したわけではなかったことがわかっただろうに。とにかく魔法などない」
「魔法もないし、魔物もいないなんて、面白くないなあ」
女は、面白いものがそこに埋まっているかのように、踏みにじられた石灰の床を、右の人差し指でほじくる。思いがけなく土ダニがわらわらと湧き出た。指で負傷したびっこのダニがいた。それも含めて、女は舌打ちをしながら手で払った。
「僕はそうは思わないな。魔法もないし、魔物もいないなんて、なんと不思議なことだろうか。そんなものがないのに、この世界があるなんて、面白すぎる」
「あんた、意味わかって言ってるの? いいっ? 元に戻るよ? 魔物はどうして逃げていったの?」
「言ってもしょうがない。実は僕もよくは知らない」
「あんた、あたいが、バカだってことを、知ってるような態度とるよね。むかつく」
「君のことも知らない。君が、どうであるかは、君の問題だ。君が考えてくれ」
「フン! 君、君って、年下のくせにえっらそうに! あんたこそ、問題かかえてるよ!」
女が鼻息とともに視線を逸らしたので、それを辿った。新たに石灰を全身にまぶし、木の葉を綴って作ったガウンをまとい、瞼を漆で塗った市民男子が、大玉に乗って朱雀門から入場してきたところだった。千鳥足で操るボールもまた千鳥足だ。子供の蹴り合うスポンジを乾かしたボールとは異なり、直径が三倍以上ある火山弾製だ。
当人にとっては得意な芸であるのだろうが、残念ながら全く受けない。
男も女も市民であればやったことがある芸だからだ。戦場から戻った時に、広場で開催されていた、一斉センター試験。そこでの試験科目の一つなのだ。市民はデヴューの前に必ず受けさせられる。
恐らく僕だけが彼に強い関心を注いでいただろう。他人事とは思えなかったからだ。市民に対して、彼は玉乗りの技で優越しており、僕は教育の特殊性、その残滓で優越している。玉乗りも教育も多数に共有された体験で、彼も僕もそれにおいてやや優れていた。気をつけるべきは、それをネタにして、市民に見せつけると、反感を買うということだ。多くの者にとってはいい思い出ではないから。ところが、何らかの理由で焦っていたのだろう、彼は間違いを犯した。僕の体験が示すところによれば、間違いの九割は焦りに起因する。
足でボールを蹴る者、肩で押す者が、続出した。
邪魔邪魔。迷惑だわねえ。あっち行けよ、ほら。
彼は、他の者には察知できない確信に促され、あくまで玉に乗ったまま、男女入り混じった輪に分け入った。速く、あるいは遅く、よろめき、突っ張り、時に後ずさりもしながら。
ついに池に落ちた。玉の上での危ういジャンプ。玉をなだめる膝の屈伸。広げた両腕は水平から垂直までめまぐるしく方向を変える。奮闘努力の甲斐あって玉からは落ちなかった。
聖者のように水面を進む。進まざるを得ない。玉は回転速度をどんどん上げていく。
泣き声が聞こえた。こらえきれずにとうとう弱音を吐いたのだ。それはたちまち悲鳴に替わった。かなづちなのだ。泳げない者の恐怖の叫び声だった。
尿が空中に放物線をかき乱しながら飛び、糞が飛び散った。鮎がそれを食うために群がり、水面が盛り上がる。
どんなイデオロギーに染まっているにしろ、生理的反応はコントロールできない。直進してくる破局に面と向かった際の、戦慄の、真実の、噴出する大小便。沈没しかけている船から生き物が海へ飛び込むように、溺れかけている宿主から大小便は池へ飛び込んだ。
哀れ、アルルカンは、足を滑らし、尻をつき、背中をつき、頭で立って、でんぐりかえり、玉にしがみつき、ずり落ちて沈んだ。
口から水を吹いて浮かび上がった。爪を立てて玉に縋りつこうとするが、相手は無情に回転するのみ。地獄に踏み込みかけたアルルカンは、ゲップと、助けて、とを、交互に吐きながら、水煙を上げ、両腕と頭で水面を必死に叩く。その音声を、おしゃべりと歌声がかき消す。
僕は、そわそわしながら見ている。さっさと玉を放棄して、浮島から水面に伸びている茎につかまればいいのに。
時には恥じるようにひそひそ声で彼を話題にするグループもいる。しかし、かなづちが釘を板に叩き込むように、圧倒的な無視の力が、アルルカンの頭を水に押し込む。
むごすぎる屈辱に今気づいたか、ここが死に場所、今が死に時、という啓示に撃たれたか、ふいにアルルカンは本能的な生存への執念を放棄し、鼻先の大玉と対峙したまま水中に棒立ちになった。
金縛り状態のアルルカンが無言で沈んでいく。
濡れても逆立っている頭髪がついに没した。沈んだまま上がってこない。つなぎ目がほどけて散乱した木の葉の中央で大玉がたゆたいながら回転し続けていた。
だれも助けない。おしゃべりと歌声のトーンには微塵の変化もない。ため息すら聞こえない。
僕は胸騒ぎにとり憑かれる。おいおい、君達、本当にこれでいいのか。冗談じゃないぞ。
見殺しにするつもりなのだ。泳ぎが達者であるものはいくらでもいるのに。
僕は立ち上がり、水辺への通路を探して横に移動したが見つからなかった。群衆の下に埋もれてしまったのだ。見切りをつけて水辺を目指して走り始めた。
用不用、要不要、有不有の選択原理が存在するのか。用がない、気が乗らない、価値がない、魅力がない、役にたたなない、とにかく、ない、と判断したならば、見殺しにしても恬として顧みないのか。魚の餌になってもいいと思っているのか。
どけ、どけ、そこ、どけ!
次々に僕を胡乱気に見上げる眼は、白目が潤んで真っ赤に充血し、三白眼ならぬ三赤眼だ。一瞬で大内裏が赤目族に占領されたかのようだ。
ただ同じ市民であるということだけでは何の絆も意味していないのだな。歯を跳ばして哀悼の意を表わすか、溺れる者を見殺しにするかについて、僕の与り知らない一糸乱れぬ判断の合意が出来ているのだな。
掻き分け、けつまずき、跳び越え、蹴飛ばして、沢山の罵声を背後に聞きながら、やっと池の端に着いた。直角に切れ込んだ堅い縁に足の指を三本ずつ掛け、伸ばした両腕を耳に当てて頭から跳び込む。
処刑のようなあまりの冷たさ。全身が急速冷凍された。心室細動が起きそうだった。実際、偏頭痛が始まった。
怯まず、うつ伏せになり、アルルカンを探しながら、ドルフィンキックで、指先が大玉に突き当たるまで進み、仰向けになり、苔と粘菌が張り付いている天井を仰ぎ見ながらいっぱいに息を吸い、バク転して潜水を始めた。足の甲で玉を蹴ってしまった。かすり傷ぐらいは負ったはずだ。

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作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦