ネヴァーランド
かん高い声を出して、二言三言の調整をした後で、ふいと姿を消したかと思うと、足を何本も一斉に突き出してシンクロナイズドスイミング。頭を出して、左右に振りながら掛け声をかける。はいーっ、はっ。仰向けに反って水没。大奮闘だ。練習を積まなければ出来ない芸当だ。水に入る機会、宴会の機会が、これまでに多々あったということがわかった。
池から追い出された両生類が、地鳴りのようなうめき声を上げながら女たちの間を徘徊し、逃げ回る女の尻に向かってサーモンピンクの舌を長々と延ばし、やめてよ、でぶー、という罵声と、いけいけどんどん、などという喝采を浴びた。伸びた舌にスポンジを押し付けて絞る大胆な女がいる。手早くストレッチングを終えた見るからに体育会系の女が両生類の背に跨った。踵で横腹を蹴りながらロデオ乗りのように卑猥に腰を動かした。
歌の性格が変わった。
女はえらい、女はえらい、この世は、うちらで、もっているぅ、
女はえらい、女はえらい、この世は、うちらで、もっているぅ、
このコーラスはノリトなのかあほだら経なのか。話し言葉をリズムに乗せているだけだ。そのリズムもまた、右足を引き摺るような変則的な8ビート、つまり僕の歩行パターンをなぞって延々とくり返すだけだ。耳を澄ましての鑑賞には堪えない。音楽のレベルに達していない。がしかし、その単調さは僕の心臓の拍動の悩ましい単調さになじんだ。
白っ子が増えた。楽器が充実した。笹笛はいつの間にか竹にリードを刺した尺八、というよりはクラリネットに変わっていた。笙、しちりき、龍笛、竹琴、胡弓の奏者だ。十人ばやしになった。相変わらず無表情で高踏的でつきあってやっているという風情だ。なぜそういう態度をとるのかよくわからない。
西軍の中央で、痩せた女が、固めた拳から右親指だけ突き出して天井を指し、つりあげられて開く腋の下を隠すように顎を横にしゃくり上げながら立った。……あれは浮舟じゃないか? 延々と同じ文句を繰り返すコーラスをバックに、やはりメロディー抜きで、体を上下に屈伸し、肩と顔を左右に逆向きにねじりながら唄った。しおれてしまった乳房が肋骨に当たって音を立てた。
ああ、無が忍び寄る、無が忍び寄る、なんというむごい仕打ち、なかったことにするなんて、水に流してしまうなんて、忘却とは忘れ去ることなり、あいつの声を忘れそう、あいつの臭いを忘れそう、あいつの似顔絵、描けそうにない、あいつの体温、あいつの好き嫌い、あいつの口癖、忘れそう、私をなんて呼んでたっけか?、笑い声、怒鳴り声、うそ泣き声、うそ夢、ごまかしかた、おせじのいいかた、絡みかた、会話の間、食事のしかた、歯の黄ばみ、流し目、上目づかい、トイレの長さ、おならの音、寝相、うわごと、うごめく喉仏、飛んでくる唾、咳のしかた、あくびのしかた、膣前庭のくじくりかた、ああ、消えていく消えていく、忘れる、忘れる、長い時間が消えていく、あれはいったいなんだったんだ? あれはいったいなんだったんだ? だあれも教えてくれないよ、遠く小さくなっていく、遠く小さくなっていく、情熱が、献身が、愛欲が、笑いが、涙が、喧嘩が、忍耐が、切磋琢磨が、あいつと私だけの秘密が、消える、消える、私が更地になってしまう、待って、待って……
僕は心打たれていた。
あの、少女浮舟は、そんなふうに生きてきたのか。
我々は一方で過去に規定され、他方で過去を忘れさせられ、その差としての今をおこぼれのように受け取る。歌に載せた浮舟の心情吐露には生存の実感があった。
だが僕は呆れてもいた。
モーゼと抱き合って大泣きし、わっすれられないのー、と大音声で唄ったのに、もう忘れかけているとは。
市民が、男であれ女であれ、極端な健忘症であることは知っていた。白っ子はそうではない。「キミノ コトハ ヨク シッテ イル」と言っていた。奴隷もそうではない。ブラザーズ、少なくともチャーリーは、ああ、右足が疼く、そうではない。市民だけがそうだ。なぜだろう。僕と遺伝子が違わないのに。アルコールを常飲するせいだろうか。僕がそうなったらたまらない。アイデンティティーが、ちりぢりに千切れてしまうだろう。
ある疑惑が生じた。
男を忘れかけ、未練や悲哀が薄れかけた頃以降に、戦争が終わるように仕組まれていたのかもしれない。 浮舟の歌は忘却を嘆くだけでなく、反語的にそれを促す効果をねらっている?
池の端で辺りを睥睨していたモーゼが大声を上げた。女達はモーゼを振り仰いだが、ボディーガードらは振り向かない。
つぎ、いってみよう、つぎ、と言ったと思う。
歓声が浮舟のラップを呑み込み、半数近い女が腰を上げた。女たちの輪は足音や体がぶつかり合う音や嬌声を伴って崩れ歪み、朱雀門に向かって飴のように延びた。
男たちが、うみゆかば、みづくかばね、やまいかば、くさむすかばね、と唄いながら入ってきた。顔面がピンク色に上気し、既に酔ってはいるが、普段の憂鬱症は表に現れていない。見かけは自信にあふれていた。珍しい光景だ。赤目の歯や目玉や指や皮膚や胆嚢や腎臓や生殖器を装飾品として手早く細工し、これみよがしに身にまとっている。戦場でどれだけ殺したとしても兵士の役目を果たしたのだから無罪だ、戦争無罪、あるいは、生命原則の指し示すところに従って殺したのだから罪悪感の入り込む余地はない、と主張しいるかのように堂々としていた。しかし、たちまち虚勢の臭いが漂ってきた。趣味の悪い金鵄勲章が取ってつけたようでそぐわなかった。理性の洗礼を受けた者が、野蛮の振りをしてもぎこちないだけだ。精一杯気を張っていないとならない特別な理由があるようだった。
駆け寄った女たちがまといつく。輪の中に引っ張り込む。
僕の傍らに冷静そうに留まって、次々に男が入ってくる門の辺りを眺めている女たちが言った。
だれ、あの男、赤目の手首を蔦で結わえて首に吊ってるやつ。知らないね。忘れた。えーと、確かあれは、おおやけめの亭主。まあっ、無事だったの、あのひと。だれそれ。だれでもいいわ、あたしもよく覚えてないや。じゃ、なんで訊いたの。覚えてる女がいるかなと思って。あんた、覚えてるからって、優先権はないよ、手え出さないでよね。へーん、勝負しようじゃないの。
男の品定めはあちこちから聞こえてきた。
坐っている女たちは、尻をずらし、ずらしたところを手で叩き、ぱんぱん、石灰の埃が上がり、その手を挙げてイソギンチャクの指使いで、男たちを誘惑していく。立っている男は千鳥足のつま先で、這っている男は額や顎で、女達を掻き分け、できた空所を埋めていく。たちまち男女が入り混じった。
僕は事態の不穏さを認識した。男らの妻はよりによってこの時に男が外に出るのを許した。それは何を許したことになるのかというと……
80)
僕のまわりの小さな空き地は徐々に狭まった。ほとんどの者が僕をわざとらしく無視していた。だが、警戒しながらも好奇心に押し切られて話しかけてくる女も出てきた。両手を床に突いて、乳房を揺らしながら、首をかしげた。その顎を乗せた右肩が落ちかけたところに彫られたタトゥーは、たぶん桜。
「あんたが、魔法使いだね?」
「魔法なんか知らない」
「じゃ、あれはなんだったの? 魔物を退治したんでしょ?」