ネヴァーランド
女たちが僕を見上げ、中には、タダヨシ!、 呼びかけてくる者もいて、ギクリとさせられた。スポンジを握った手が、右からも左からも延びてきた。回し蹴りに失敗し、ヒトミと引き離され、ガードマンに保護された疑いを抱いたせいで、気の鬱した僕は、純水とは異なる水分を欲して、次々に受け取って吸った。
奴隷達は、女たちの輪を取り巻いて、戦場でと同じようにバケツリレー方式で食べ物とスポンジを渡していく。それらに混じっている懐かしいものを見た。うっすら黄土色に変色したプラスティック容器だ。裏面に焼印が押してあるやつ。施設にあった。僕の部屋には割れることもある陶磁器しかなかった。彼らのアパートだけにあったものの一つだ。持ってきて使っていたのだ。陶磁器ならここでも作れる、いつか作ってみよう、などと思った。容器には果実酒が重たげに揺れていた。肩の高さを手から手へ、女たちの輪の海を、小さなタンカーのように移動していた。紅を塗った唇が次々に口をつけていく。スポンジを握った手が何本も伸びてきて、容器の上で絞るので、酒はなかなか減らない。そのタンカーが僕の右手の甲に当たって止まった。僕も立ち止まった。しゃがみこんだ。両手でそれを支えていた女が、興味深げに僕に差し出した。
あんたも飲みな。
僕はおずおずと受け取った。まわりの女たちが声を合わせて繰り返し叫んだ。
いっき、いっき、いっき、いっき。
角に口をつけ、音を立てて飲み始めた。三十度ほど容器が傾いたとき、ぐらりと来た。酔いが急に回ってきた。三十度どころではなく、もっと傾き、尻餅をついて、仰向けに倒れた。全部飲んでしまったお調子者の僕。両足が宙を掻いた。たちまちその宙をたくさんの顔が縁取りした。後頭部や背中を押す手に助けられて坐ることが出来た。
ありがとう。どうもありがとう。
容器を女に返そうとして、その底の焼印に目が留まった。最初は透かしてみたがどんな模様かわからなかったので、裏返しにして風穴に向けてよく見た。夕空に満ちているはずの残光が、風穴を抜けて、緑の蔦と池の表を照らし、反射し、拡散していく。容器の底を透かして天井と壁に揺らめく沢山の水紋の影がおぼろに見えた。それは一足早く訪れた星空のように、僕の脊椎骨の延長線が天井と交わる点を北極星にして、ゆっくりと回転していた。眼筋に力を込めてうんと手前に焦点を結ぶと、焼印は筋をなす黒雲となって両手の間に浮かび上がった。
火のそばに置かないでください、が廻る。
なんだって? これは焼印ではない!
梶田化学工業株式会社、が廻る。
ええっ?
〒143-0012東京都大田区大森東六丁目二十二番地、が廻る。
どういう意味だ?
TEL? URL?
いったい何の略記号だ?
外部からの音響効果に新たに内部からの心拍音と耳鳴りが加わった。酒のせいでもあるし、容器の裏の謎の刻印のせいでもあった。強烈な当惑とともに強烈な睡魔が襲ってきた。抵抗空しく降りてきた瞼の裏側に、今度は白抜きであの刻印が現れた。
トウキョウ? トウケイ? トンキン? ト? ツ? ドウ? ミヤコ?
いったいどこのくにのみやこなんだ?
79)
目が覚めた。天井はもう回っていなかった。相変わらずの大騒音を縫って、あら、目を覚ましたみたい、という艶な声が届いた。頭が、とても、とても、とても、痛い。塩味の唾液が泉のように湧いてきて口腔に溜まっていく。耳下腺の開口部の位置がはっきりわかった。あわててうつ伏せになって口を開くと、底が抜けたように流れ出た。胃が痙攣を準備中だった。ここで吐くのは迷惑だろう。唾液がさらに湧き、最初の一回分が食道を昇ってきた。それを小刻みに噛んで飲みこんだ。
女たちの間を這って進んだ。失礼、奥さん、どいて。
歯を噛み締めてはいるけれど、ああ、鼻から吐くぜ。
間仕切り用の竹柱を差し込む穴をやっと見つけた。その穴を見ただけで、胃の内容物が堰を切って駆け上がってきた。大急ぎで近寄って嫌なことは早く終わらせたいとギロチンにさっさと首を突っ込むように穴に首を入れた。血が輪切にされた首の根からほとばしり出るように吐瀉物が二拍子のリズムに乗ってほとばしり出た。解放されていく快感にぞくぞくした。射精に酷似していた。
急速に溜まっていく吐瀉物がせり上がってきて顔にぶつかる妄想に脅かされ、頭頂部を壁面に擦りながら首を引き出して上半身を立てた。ふーっ。吐いた息がものすごく臭いのは息を吸ったときに嗅がざるをえないからよくわかった。
見回すとまわりに小さな空き地ができていた。
女達は、僕に背中を向け、唄い、しゃべり、上半身を揺らし、肩を上下し、腹を出っぱらせたり引っ込めたり、互いに肩をたたきあい、腹を突つきあっていた。鼻をこすりつけあいながら、互いに腕を伸ばして、胡坐をかいた下肢の奥をいじりっこしているカップルもいた。唇だけでなく顔全体を紅で塗りたくった女が立ち上がって両手を頭上に挙げて回転し、突き出た何本もの腕の上に倒れこんだ。複数の御愛想の嘆き声が聞こえた。
声は上ずり大きくなり時に裏声になる。筋肉が緩み、体の動きが大きく、緩慢になっていく。腕が顔にぶつかることもある。喧嘩も始まる。
ちょっとお、あんた、あいつのなんだったのさ。不倫女よ、浮気相手よ、情婦よ、隠し女よ、うちの次男は彼の子よ、あんただって何してたのさ、見たもんね。なに見たのよ。現場。そんなガセには引っ掛からねーよ、なにつかんでんだよ、放しな…… 女の本心は、子供の父親がほんとは誰かで、わかってしまうもんよ、でさあ、どうも似てねえな、っていわれたことない? あるある。どうしてた? ばっくれるわよ、あたりまえじゃん、年寄りの思い出言えばごまかせるでしょ、隔世遺伝だとか、ばかだねえ、ますます疑われるでしょうが、まず、かんかんになって怒らなきゃ。ほんとはだれの子か、ばらしっこしない? なんのために? うちらがもっとなかよしになるためよ。ふざけんなよあんた、あたま、たしかかよ。いやいや、もしかしてなれるかもよ…… 正体がわかっちゃった、いやなやつだったの、がまんしてたの、子供達の手前、こらえてたのよ、死んでくれ、死んでくれって毎晩お祈りしてたわ、神様がどこかにいらっしゃったのね、願いを聞いてくれたわ、やっと殺してくださった。ああ、ありがたや、ありがたやだ…… 子供は残ったなあ、だけど息子は父親と同じように呑んだくれて戦争に行って死ぬよねえ、正確に、同じっ、やるでしょ。あんたのむすめもあんたと正確に同じことを繰り返しそう。自分とここそ! むすめ達はうちらと同じになるの? あんた、あんた自身とむすめと区別できる? みかけだってそっくりだし。いいじゃないの、私だろうと、私のむすめだろうと。賛成、賛成。同じのどこが悪いの、繰り返しのどこが悪いの。なんでもかんでもぜーんぶ繰り返しでしょ? 同じ、繰り返し、同じ、繰り返し、ええじゃないか、ええじゃないか、よいよいよいよいとっ。なーにがいいんだかさっぱりわかんねーんだよ!
神泉でもそうだったが、女たちが次々に池に飛び込んだ。
酔っているので水を怖がらない。