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ネヴァーランド

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いや、いかん、いかん。自分の受けた屈辱などはどうでもいい。私的反応に過ぎない屈辱などに拘泥する必要はない。そんなものを理由に行動してはならない。仕返しの類に時間を費やす暇はない。初心忘るべからずだ。
生き物は、時空に対してのサヴァイバル戦略の一環として、便宜上個体に分化して発生するので、脳神経系が過剰発達した高等動物では結果として私心が派生する。だが、それを、我、とか、主体、とかに実体化して、価値優先ランキングの第一位に置くのは、方法を目的に取り違えた幻想だ。
施設にいた時には、私、を意識するのが嫌だった。勉強や運動をするとき、邪魔で邪魔でしかたがなかった。つい近頃まで私心など本来持っていないと豪語していた。
しかし、私心という幻想に近頃時々引っ掛かる。
広い世界に出て、経験を積んだ果てに、逆説的にも、私心にとりつかれ、閉塞感に悩まされることも、特に眠りに入りかけの幽明境を接する時に、あるようになった。これが頻繁になれば、やがて慢性的閉所恐怖症を発症し、もともと閉所恐怖症の気味があったから、その病は重症化し、ついには僕を狂気に駆り立てかねない。
もしも、私心に侵食されていくことが成長であるとしたら、成長とはなんと倒錯的だろうか。少なくとも僕の成長は。さらに。成長期には私心に侵され、老年期には死心に侵されるとしたら?
私心なんぞから脱しなくてはろくな行動は出来ない。行動しながら、行動を治癒の一手段と見做しながら、脱していくしかない。
モーゼを利用し、白っ子と対峙し、市民との連帯を図ろう。モーゼは危険だし、白っ子は得体が知れないし、市民は退廃を極めているが。

78)

男特有の、低音のざわめきと太い鼻息の音が、女達の歌とおしゃべりに混じって聞こえ、ヒトミが強く僕の体を抱きしめたので、僕は我に返った。
六名のブラザーがモーゼの回りを取り囲んでいた。首から下は動かさないが、しょっちゅう首を左右にふり、つばを吐く。
なぜ、ツバを吐くのか。口の中にツバが溜まるのを許せないかのようだ。なぜ、自分のツバなのに違和感を覚えるのだろうか。 モーゼのまわりには、光の加減で見えたり見えなかったりするツバの雨が降っていた。近づきたくないものだ。
正面の二名が僕らを注視していた。残りはモーゼを取り囲んで円周上に立ち、首を振り子のように動かしながら警戒していた。
ボディーガードの存在理由は、地下帝国内では、モーゼだけによる、モーゼだけのための、モーゼだけの暴力装置だ。ん? 順番が違ったかな? の、による、のための、か。オウバーマーという男も、演説のなかで、順番を間違えたそうな。オウバーマーとはどこのだれだか知らないが。
モーゼは奴隷達のテロリズムを警戒しているのだ。暴力的な不穏行動が発生するとしたら、その発生源は、採用はされたが本来他者であるとみなされている奴隷だ。
「他者と科学を共有できなければ、公平な経済的交換も正確な意志伝達も実現可能ではなくなり、暴力しか残らない。むしろ、そのような関係にあるとこちらがみなした相手を他者という。例えば9・11アタックスを実行した彼らを。しかし、いいかい、タダヨシ、他者なんて本当はいないんだ。あくまでみなしだ、フィクションなんだ」
父は、系統的な学習以外のトピックスを、元はいかに深刻であれ、深刻の度合いがガキである僕にはわからないのをいいことに、科学者にはあるまじきほどに恣意的に改変して語り、僕の反応を観察することがあった。天井全体が振動板である音響装置を通しての父の声しか知らなかった僕は、他者を語られても、困惑するしかなかった。こんなに長く生きてきたのに、会ったことがないんだから、多分いないんでしょ、と皮肉を込めたつもりで応えた。高笑いが天井から降ってきた。父はこういういたずらをする人間でもあったのだ。だから僕もいたずらをしないわけではない。
さて、市民も白っ子もブラザーズも僕にとって他者ではないという証拠はなんだろう? ヒトミが他者ではない証拠を挙げる自信はあるが。

ヒトミが悲鳴を上げた。僕は、全身に痙攣を走らせ、現実に戻った。
抱き合っていた僕とヒトミの間に、毛むくじゃらの太い二本の腕がモーゼ達のいる側とは反対側から突き通って、一挙に開いた。僕の胸とヒトミの喉が、なたで割られた薪のように、分離した。
ヒトミは、はじき飛ばされ、仰向けに倒れた。またもやこういう場面を見てしまった。かわいそうに。何度もこんな目に会ってきたし、これからも会うのだ。僕も、癖になった悪夢のように、繰り返し見るのだろう。
よろめいたけれど踏みとどまった僕を、ブラザーはちらりと見て顔をしかめたが、手を出しはせず、ヒトミの方に体の正面を向けた。
僕に対する対応策が不徹底なのか、決まっていないのか、元奴隷の急な身分変更についていけないのか。どうであれかまわず、僕はそいつの傍らを、捕まらないように身を屈めて前に出ようとした。
うつ伏せになって起き上がりかけたヒトミは、ケツを蹴られて這いつくばり、それでも振り向いて、僕に近寄る姿勢を見せ、僕と目が合ったところで顎を蹴られて、血の霧を吐いた。おまえ、やめろ、こら。
僕はそいつのケツを左足で蹴ろうとしたが、痛みの残る右足では体を支えきれずに転びかけ、空振りしただけに終わった。その間、モーゼも他のブラザー達も知らん振りだった。
僕は、ヒトミに呼びかけた。
後で会える。何度でも会える。一緒に暮らすことだってできる。いまは給仕をやっていなさい。我慢しなさい。
ゆらり立ち上がったヒトミは、後を、つまり僕を見ず、泣き泣き、女たちの輪をよろめきながら横切り、朱雀門に消えた。
ブラザーは、従来とは異なり、ヒトミをそれ以上追わず、モーゼのそばについた。彼らはヒトミに対する態度を変えたようだ。
僕については、変化がさらに大きいようだった。さっきのブラザーの行動を思い返した。ヒトミを僕から引き離したともとれるのではないか? 悔しいことだが、僕はボディーガードに守られているのかもしれない。
朱雀門のこちらがわを、焦点の定まらないまま、うろうろと見回す。立ち働く奴隷たちの、規律や機転や注意深さと、奴隷たちをロボットとしか見做していない女たちの、傍若無人、あられもないふるまいとが、好対照をなし過ぎているように思われた。かつての戦争の際の敵対者であった奴隷に、今回の戦争の、自分の夫を殺した敵対者を重ね合わせて、恨みと差別の感情が、日常よりは強まったせいなのかと勘ぐれなくもなかった。別れの後なので滅入る僕ではあったが、見物人としては興味深かった。
僕は、ぼんやり立っているのも目立ったし、モーゼのボディーガードらにじろじろ見られて不快でもあったので、踊りながら降りてきた通路を、自分の恥ずかしい幻影を掃いて消したい気持ちを抱きながら辿った。ボディーガードは僕から目を離さないが、ついては来なかった。ほっておけというモーゼの命令があったのだろう。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦