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ネヴァーランド

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「ニッポン、ニッポン、ニッポン、……」
モーゼのつぶやきは、段々大きくなり、どなり声にまでになった。
何かの記憶が湧き上がってきたのだろう。その結果どう思ったかはわからない。
近辺の女達は振り仰いで僕達の様子を物珍しげに見ていた。そしてニッポンと口にし始めた。それはたちまち伝染していった。そして、

にーっぽんのみらいは、いぇいいぇいいぇいいいぇい、せーかいがうらやむ、うぉううぉううぉううぉう……

おやおや、ヘンな歌を歌い始めてしまった。
ところが二番まで行かないところで、とつぜん女達は歌をやめて、歓声を上げた。朱雀門からたくさんの奴隷が食料とスポンジを携えて入ってきた。
僕が、ヒトミ!、と叫ぶのと、ヒトミが、タダヨシ!、と叫ぶのと、ほぼ同時だった。

75)

ヒトミは、細い左腕の脇下に熟れ過ぎて汁をたらしている果実類を抱え、右手に赤ん坊の頭ほどの大きさのスポンジを握ったまま、それらの重量にもかかわらず、けっこうな高さ、垂直に跳び上がった。鮎は左右に身を振って水面から跳び上がり、ヒトミは前後に地面から。
数名の女が、僕達のエール交換を聴きつけ、電話架線を探すように、僕らを隔てる空間を視線だけで二、三回往復した。
タダヨシ! 喜色満面の顔が、踏み出したとたんに女に躓いたせいで歪んだ。罵声に果実一個で応えて勘弁してもらうと、女たちの輪を、小刻みに歩幅を控えながらも突っ切り始めた。タダヨシ!
僕への想いの一途でひたむきなヒトミを確認できて、うれしかったが、これからいったい何度、ままならない別れを繰り返すのだろうかと、不吉な感じに襲われもした。不吉というよりはむしろ不快だった。その日、戦場で再会し、別れさせられ、また内裏で再会するまで、わずか二万秒ほどしか経っていなかった。戦時下であったから二万秒だったのかもしれない。しかし、ここの日常が、はたしてどれほど戦争から乖離しているだろうか。残酷も非情も日常的に蔓延している。だから外的状況に翻弄される度合いが今後極端に下がることはないと思われる。別れと再会は、短いインターバルで切り替わるだろう。最後は、どっちで終わるのだろうか。
女の足を踏んだり腿に躓かないようにしながら、もしそうなったら謝って果実を与えながら、笑い顔をなるべくこちらに向けて走るのが難しい芸当であるのは当たり前で、あわてるな、ヒトミ、と呼びかけたが聞こえなかったようだった。
僕達を別れさせる要因は、外的状況だけだろうか。互いを引き付けあう要因は、友情か、愛情か、連帯感か、因縁か、共通体験か、誤解や錯覚か、得体の知れないホモセクシャリティーか。
さいわい祝賀祭の翌日から現在までの数日間は、一緒にいられているが。
どこにいくにもヒトミは金魚のウンコのようについてくる。時々僕がウンコになる。
ヒトミの体が急停止する。
額だけが惰性で僕の胸にぶつかった。額を押し付けたまま、小鳥のさえずりのような音入りの息を、たて続けについた。僕の胸にそよ風が当たる。その体勢が、初めて会った時と比べてヒトミの背が伸びているのを気づかせた。
最後に長いため息をついてから、普段に増して垂れ目になった顔を挙げた。近くで見ると、目と目が、同情するほど充分にかけ離れて配置されている。鼻孔が開いたり閉じたり。鼻水の垂れた跡がそこから唇の上にかけて固く白くこびりついていた。確かに汚い顔面だが、その下には高貴に近い無垢が控えているはずだ。いや、どうも甘いな。
右手を伸ばしてスポンジを差し出し、僕の口にそっと当てた。接吻の代わりのように吸う。アルコールの蒸気が喉を直撃したので咳き込んだ。ヒトミの好意を無にしないようにスポンジに噛み付いてまた吸った。うんめーっ。ただ、強く握り締めてしまっていたようで、すぐに味も香りもなくなった。ヒトミと発音できないので、代わりに両手で強く抱いてやった。おお、かわゆい。ヒトミが、声は出していないものの、また泣いているのが、手のひらの下の背中の痙攣でわかった。息をつくときには音を出し、泣くときには出さないのはなぜか。口をつぐんで鼻で息をするからだろう。僕も奥歯を噛み締めた。眼下の震える狭い肩と腹に押しつけられた細くて間隔の狭いあばら骨が哀れだ。相変わらず猛烈に臭い。市民の体臭とは異質のエキゾチックな混じりけを含んでいる。湖よりも、施設ニッポンよりも遠いところに暮らす種族の、遺伝子と慣習の主張だ。川か湖に連れて行き、全身を浸して、川貝の貝殻で垢を削り、表皮を洗って、スポンジでふいてやろう。遺伝子と慣習の痕跡を洗いとることは不可能だが、帝国での奴隷生活で被った汚れぐらいは落とせるはずだ。
ついでに泳ぎも教えてやろう。……愛用のバルサはどうなったかなあ。
鞭打ちのようなモーゼの舌打ちが聞こえた。二、三歩離れた所で腕組みをしてこちらを見ていた。架空の耳栓が落ちて、歌と楽器とおしゃべりと動物のたてる音響を再び聴いた、あるいは意識した。

76)

モーゼは、ひしと抱き合っている僕とヒトミを見て、僕と協同して自分に楯突いたヒトミを思い出しのだ。それが鋭い舌打ちの理由だった。僕も、崖の下でヒトミと引き裂かれたときのモーゼを思い出した。舌打ちを打ち返した。勿論、鞭打ちには及ばない。そんな音なんか出ない。舌の表面積と厚さと舌筋力に差がありすぎるから、ささやかなものだった。
あの時、恐竜を撃退した後、僕を手元に置いておこうとするモーゼに対して、できうるかぎりの抵抗はしたつもりだ。モーゼのしつこさがそれを凌駕した。
それまで僕がモーゼの手首を捕らえようとしていたのとは逆に、モーゼが僕の手を捕らえようとした。最初は、なぜ捕らえようとするのかわからなかった。なぜ自分が逃げようとするのかもわからなかった。入れ替わった立場に、わけのわからないまま肉体だけが適応するのに、数秒かかった。当惑しながら争う浮遊感は今でも記憶に生々しい。
モーゼの太い腕は、 太さに見合わない敏捷さで僕の手首をつかもうとした。僕は両手を尾骨に当てて、後ろに下がり、現場から逃げようとしたが、ヤツの腕は長くもあり、うなじをつかまれてふところに引っ張り込まれた。接近したその時、臭い息が左耳に吹きつけられた。私のそばにいるんだ、とささやかれた。ぞっとした。ぞっとしたことで自分が抵抗する理由がわかった気がした。モーゼは、ささやきながら、背中を越えてこっそり僕の手首を右手でつかもうとした。立褌を探る感じ。
ヒトミは、僕をモーゼに奪われまいとして、モーゼが僕のどこかをつかめば、その接合部に跳びついて、ぶら下がり、切り離そうとはかない努力を繰り返した。有り難かったり邪魔だったりだった。
這って前に逃げようとすると、やつの垂れ下がった左手が待っていた。その手首を、文明の罠、ニンテンドー、が噛んでいた。父からの贈り物。その威力と操縦者である僕の有用性をモーゼに見せつけ、帝国での僕の存在理由となるはずの物。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦