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ネヴァーランド

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彼女達のおしゃべりや、歌の文句は、男達の発言よりはるかによく理解できた。子供が漢字よりかなをまず覚えるように、男言葉より女言葉がわかりやすいのだろうか。本当は表意文字である漢字のほうがわかりやすいはずだ。昔、速読を訓練されたとき、漢文が材料だった。表意文字ばかりなので、声帯が震えず、速読が簡単に身についた。かなの見た目の平易さという子供にとっての問題を離れて、女言葉が僕にとって容易なのには、二つの理由があると思う。
僕は女達の発言を音楽として聴いているのではなかろうか。かなが表音文字であることを、女言葉の音標性にまで敷衍し、女の発言は音楽であるという錯覚、多分、に陥った。ところが、それでうまくいってしまったのだ。
もう一つ、理由になるかどうかはわからない不審なことがある。父から聞いた。僕の性染色体はXXYだそうだ。女がXX、男がXYだから、僕はとても女性的な男ということになる。Yがある限り男だ! 遺伝子自体の異常ではないので、外見は男だ。日常生活にも性生活にも支障はない。子孫はできるそうだ。ただ、この染色体異常が、女の言うことが男の言うことよりわかる、少なくとも言語レベルではよりわかりやすい、という理由になっているのかもしれない。
女達が右の方を気にするので見ると、官舎と思われるところから、昼寝をしていたさっきの白っ子たちがのろのろ出てきたところだった。先頭の者は、笹の葉を口に咥えて、旋律を奏でていた。次の者は、竹の横笛を吹き、その次は、小ぶりの竹を輪切りにした小鼓を打ち、次は大鼓、最後は、やはり輪切りにした木の幹をくりぬき、両側を動物の、恐らくはヘビの皮で張った大太鼓を左手で転がしながら、右手に握った骨の撥で、大音を立てていた。彼らは、内裏の舞台の左側についた坂道を登り、正面に並んだ。五人ばやしのお出ましだ。小モーゼはいつの間にかいなくなっていた。彼ら五名が大内裏に居残っていたわけがわかった。もともと楽隊員だったのか。宮中の楽師だったのか。それとも、これは官僚の余技なのか。その演奏は、合唱とは対照的に、慎重で客観的だった。
通風口が鳴り始めた。鮎が水面をせわしなくたたく音、両生類の放つ不気味な通奏低音、五人ばやしバンドの超然とした伴奏に乗って、歌はさらに調子づいた。東西の掛け合いが、東西南北に分裂し、さらにアナーキーの度合いを高め、カオス寸前のポリフォニーに至った。音響は壁天井に反響し、壁の向こう、天井の彼方でも、女達の姉妹が群れをなし体を揺すりながら声を張り上げているかのようだった。
歌を聴いていると、その中に夫への呼びかけを聞き取ることができ、夫=兵士たちに意識が向かい、彼らがどんな末路を辿ったかを思い出さざるをえなくなった。
夢ではなく現実だったあれ。次から次へと身をよじりたくなる記憶が押し寄せてきた。超過敏になった五感が、ありありと反芻する。大声が出てしまう。うーっ。あーっ。脳の働きを止めるにはどうしたらよいのだろうか。膝をつき、両手の間に吐いた。地面にこぼれた胃液に混じって戦場で食べた胡桃のひとかけらが歴史のようにころがっていた。
歌は続く。耳を聾するほどだ。

またあうー、ひーまでー、あえるーときーまでー、なんべんいったらわかんの、あえねえって、しんじゃったんでしょうが、あなたー、やくそくしたじゃないー、おんなー、ごころのー、みれんー、でしょうー、よみのくにまでー、かーけていきーたいー、わたしーなのよー、かえってこーいいよー、うーーーーっ、うぉんてぃっど! わたしのわたしのかれーはー、うんうん、ひだりまきーっ、あいつ、あんまり、りこうじゃなかったなあ、ただ、あいつの、やさしさだけがー、こーわーかーあーったー、てめえこそこわいんだよっ、あったっしは、ないてーいまーすー、べーっどのーうーえでー、ないちっち、ないちっち、よーこむいてないちっち、ああー、しくじった、しくじった、あのーひとーと、やーってやってしーまった、まただわー、またなくー、なくなくー、なだそうそー、もめんのー、はんかちーふ、くーださいー、はい、あるよ、わたしてやってね……

不思議なことが僕の身体に起きた。歌が、僕を戦争の悪しき回想に蹴り落としておいて、そこから救済しようとしてもいたのだ。歌自体の持つ治癒力、賦活力たるや、強烈なものがあった。すっかり引き込まれてしまった。聴き惚れた。気分が楽になり、悪夢は消え失せた。
お父さん、こんなに素晴らしい歌を、どうして僕には聴かせてくれなかったの?
さらに僕の両手はゆっくりと上がっていき、頭上で交差し、手首を縛られて吊り上げられたようにからだが持ち上がり、つま先立ちになった。僕はうきうき気分で回転し始めたのだ。跳ねてまわり跳ねてまわり、右に左にシャッセして、向きを直角に変えるとグレイプヴァインで移動した。池に向かって延びている通路をスキップとグランパドゥシャで大きく前進し、バックスライドで少し戻った。夢の中を歩いているようだった。体育館で、父の指示の下、僕自身をモデルにしたアニメーションをスクリーン上に観つつ、メトロノームに合わせて繰り返したあのエクササイズは、予期せずにこんなところで開花した。あれは舞踏だったのだ。嘲笑や野次にめげず、歓声と手拍子足拍子に煽られ、時に実際尻のあたりを叩かれて、池に近づいていく。途中で一度転んだが、そんなことでは止めなかった。浮かれ男は、合唱をスキャットで追いかけながら、ダンス、ダンス、また、ダンス。
歌はなおも続く。

なーみだのきす、もーいちーどー、きすってしょっちゅうしてたあ? かざりじゃないのよなみだは、はははーん、かざりのなみだもあるのよ、はははーん、あなたのかんだー、あそこがーいたいー、うちはぎゃくだったなぁ、だれーとでーもー、あんなふうに、すごせるのーかーなー、あんたー、いまはー、そらもー、じゆうにとべるはずー、あたりまえだよ、いっつ、おーとーまてぃっく、せんのかーぜになーってー、あのー、おおきなそーらをー、るーららっ、ふきわたってーいますー、ああ、こいびとよー、そばにいてー、このしにわかれがー、じょうだんだったとー、いいーってほしいー、 そーそーそー、じょーだんじょーだん、ぴーひゃらぴーひゃら、おどるぽんぽこりん……

池の縁につくや否や四つん這いになって甘露の水をしこたま飲んだ。汗まみれだ。沢山のかすり傷が痒かった。汗が水面に何粒も滴り、さざ波が走って、映っていた放心の表情をゆがませた。
視野の左の隅に膨れた足が侵入した。見上げるとモーゼだった。さすがに立ち上がった。彼の家庭教師となったが家来ではある。
モーゼが、上体をこちらに傾げて、小声でささやいた。
「…、…。………」
「えっ?、もう一度言ってくれ」
「冗談、冗談。みんな冗談ね」
僕はわが身も省みずに言い返した。
「君の存在も冗談だよね」
そもそもこの帝国は冗談で成り立っているのだから。
通じたかどうかはわからないが、モーゼの横顔が震えた。怒らせたかと思って警戒したが、彼は前を向いたままだった。それは翌日にマスターすることになる笑いの前兆だったと思う。
「施設ニッポンは冗談ではなかったと思うかい?」
モーゼは、僕を見下ろし、頭を訝しげに左右にふり、眉をしかめた。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦