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ネヴァーランド

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二つのはさみは天井につっかえ、僕のほうへ覆いかぶさりかけている。
口の周りでとげがうごめく。泡を吹いている。その大半は下顎から腹へと伝い落ちるが、一部は宙を飛んで僕の顔にかかる。粘度が高く、ややしみる。
八本の脚が、からだの重心を静止させたまま、落ち着きなくステップを踏んでいる。
かんかんに怒っている。
洞窟は行き止まりだ。
開ききったはさみが交互に振り下ろされた。泥水のしぶきがとんできた。
僕は金切り声を張り上げながら、前進後退と跳躍を繰り返し、精一杯威嚇した。
どれだけ時間が経ったろうか。僕の奮闘努力が功を奏した。
敵は辟易としたようで、ふと後ずさりして、急に姿を消した。
僕は入り口から外を見た。
巨大なはさみを振り上げたまま崖を転落していくところだった。
僕は崖を斜めに極めて用心深く降りた。

10)

川の浅瀬を進む。いつでも水が飲め、襲われたときにすぐに深みへ逃げられるように。
来た時は川を右に見て下流に進んだので、今は川を左に見て上流に進んでいる。
このまま行けば必ず帰れると、僕の体の深いところで勇気づける者がいる。
魚竜の死体が打ち上げられていた。半腐りだ。昆虫が張り付いている。僕は食べては吐き食べては吐く。プラスマイナスで結局はプラスになっただろう。そこを離れた。
藪を掻き分ける音が聞こえた。僕と並行に歩いているやつがいる。僕は岩陰に身を潜め、足音が遠ざかるのを待った。
潅木を倒しながら二頭のヴェロキラプトルがじゃれあっていた。一瞬心なごむ。
たくさんの昆虫が常に頭上を飛び回っているが、それらが降りていく場所を見つけた。また腐臭がしてきた。
赤い花弁にたくさんの粒を散らしたラフレシアが十個も咲いていた。花芯の周りはプールになっていて、昆虫がぎゅうぎゅうづめに輪をなして、頭を突っ込んでいる。中には転落し、溺れかけているものもいる。
僕も分け入って飲んでみる。腐水だが脂っこくて甘い。腹いっぱい飲んでしまう。
さらに進む。
新たな音、気配、臭いに、いかに疲れていても、僕の体はいちいち小さく跳ねて反応してしまう。
とうとう支流が注ぎ込む場所を見つけた。もつれながらも、つい足早になる。
暗渠の端に跳びつく。ずり落ちる。岩肌を夢中でかきむしり、やっと暗渠に入れた。

団地はひっそりしていた。時々夫婦喧嘩か、子供を叱る声が聞こえてきたが。
外とは異なり、どこもかしこも明るかった。

シャッターは上がったままだった。体育館やプールにも誰もいない。
部屋に戻った。疲労と安堵感で失神しそうだ。
だが、我慢をしてシャワーを浴びた。自分の体が不快だったからだ。僕は衛生観念を叩き込まれている。さらに、シャワーは、外を切り離し、内への帰還を証明する儀式ともなるだろう。
湯は体中の傷にしみた。
蚤やダニやしらみがタイルの床に落ちた。
全身に悪寒が走った。
今まで意識しなかった猛烈なかゆみに襲われた。
床を転げ回って身体を掻いていると、父の声が聞こえた。
「お帰り、タダヨシ。楽しかったかい?」
僕はキーボードに走り寄る。
「楽しくなんかなかったよ。外へは二度と行かないよ、誓うよ、お父さん」
嘘をついてしまう。必ずまた出かけるだろう。僕には確信があった。
命からがらやっと帰り着いたのに。懲りに懲りたはずなのに。
さらに僕は、一日中気がかりだったある重大な疑問を投げかけた。
「お父さん、僕はいったいどこにいるの?」
「             、     」
答えを聞いて驚いた。
知らないこと、分からないことは、毎日聞いている。しかし、矛盾していることを聞いたのは初めてだった。
父が僕に施してきた教育とは、とどのつまり、現象を矛盾なく説明する能力を育成することだ。その教育原理に自ら背反するとは、どういうことだろう。
耳を疑った。めまいに襲われた。
こんなことは、聞きたくなかった。二度と同じ質問はするまいと決心した。
だがもう遅かった。その矛盾は僕にとりついた。
父はいつもと変わりない軽やかな調子で言ったのだ。
「どこにもない場所だよ、タダヨシ」


11)

翌朝、吐き気のせいで目が覚めた。
吐き気がなければ目が覚めなかったかもしれない。ゾッとする。
目覚める直前から気分が悪く、抽象的な悪夢に悩まされた。
翌朝であるかどうかも定かでない。
何日も眠り続けていたような気がする。
起き上がろうとすると、全身に疼痛が走った。
右脚の大腿部、左わき腹に、縫合の跡がある。左足首に数箇所注射か点滴のせいでできた斑点がある。イソジンのにおいがする。眠っている間、というよりは麻酔をかけられている間に、外科手術が施されたらしい。
「おはよう、タダヨシ、目がさめたかい?」
コダーイの無伴奏チェロソナタとともに、父の声が天井から降りてきた。
「今日からしばらくは、体育をとりやめる。その他の学習は今までどおりだ。学習は習慣だっただろう? お前は日常に戻ったのだよ。そして日常とは、習慣づけの別名だからね」
日常? 父のあの言葉を聞いてしまった以上、僕が非日常に乗っかって生きているのは明らかだ。安定していた足元はいまや大きくぐらついている。
僕は、第三番惑星、EarthあるいはTerraに乗っているはずだ。しかし、そこさえ確固たる足場ではない。あんなにたくさんの恒星や、色とりどりの惑星や、蛍光を発する衛星を見てしまったからには、この星を相対視せざるを得ない。
僕は回転しながら浮遊する極小のボールにかろうじて張り付いているに過ぎない。
乗り物酔いを感じる。
どうにか起き上がって、シャワーを浴びた。薬臭い。
キーボードに向かって学習ノルマを終えると、シャッターが上がった。
父からの指示がついてまわる。体育館では何もせず、プールはつかるだけだ。
プールは温水で満たされ、やはり薬の臭いが立ち昇ってくる。何度ももぐる。つい、いつものように目を開けてしまった。刺されたようにしみた。痛さのあまり、水中で悲鳴をあげ、お湯を飲んでしまった。父の失笑が聞こえた。
部屋に帰ってくると父による尋問が始まった。僕の無断外出そのものは問題にされなかった。冒険の経過を事細かに聞かれた。
僕はキーボードにストーリーを打ち込み、CGで情景を描いた。父は僕の絵を褒めてくれた。僕はちょっと得意になり、次々に描いていく。

何日かが過ぎた。ある朝、ニンテンドーが新型になっているのに気づいた。ノルマの後、それの試運転をした。
モニターに映し出されたシミレーションゲームを見てびっくりした。
不協和音の塊である交響曲から始まって、吾郎、吾郎を殺した恐竜、Tレックスの群れ、翼手竜、タランチュラ、ヘビ、ステゴザウルス、甲殻類、魚竜、とにかく僕が遭遇した怪物どもが続々と登場するのだ。
火山の噴火、川、けものみち、山、空、林、地面、そっくりそのままだ。
僕に抱きついてきたあの化け物の正体が分かった。水草模様の両生類だ。父は僕の証言だけからそれをつき止めた。
ロールプレイングをしながら、ニンテンドーに慣れていく。
敵に出くわしたなら、すぐに周波数を合わせなくてはならない。これに手間取ると襲われる。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦