ネヴァーランド
君らのことを、僕は見切っている。全体の崩壊という最終的な罰の前では現時点での個別の罪は意味を持たないとふてくされているのはよくわかっているからね。
もう、君のことは言わなくていい。
僕を見切ってくれ。僕のふざけているところを、指摘してくれ。君らの言葉で、身振り手ぶり交えてでいいから。
お互いさま、そのくらいやってくれよ、仲間だろう?
酔っ払いは、ゆっくりと荒い息をしながら横たわったままだ。
黙っている。おい、何か言えよ。黙っている。
斜め後から、ヒトミのひそやかな啜り泣きが聞こえる。
なぜ泣いているのか。言っていることの意味は伝わっていないはずだ。もし伝わっていたとしたら、ヒトミの学習到達度について、認識不足であったということだ。真摯な学習者であるヒトミは、予想以上に言葉を、少なくとも聴き言葉を習得しているのかもしれない。そうだとすると、僕の発言の、どこに、なぜ、泣くのか。大きな疑問だ。泣かせてしまったからかわいそうには思うものの、ヒトミとは何者か、という根本的な疑問さえ誘発されて、落ち着かなくなる……
面前の酔っ払いは、その醜いむくんだ顔を僕に向けている。意外にも注意が集中している。発語は不可能ながら、なにやらこれから僕を見据えてやろうとする気配を感じる。
こちらとしても緊張するではないか。
表情、特に目は、脳に近いので、脳の専制も狼狽も体のどこよりも早く現出する。作為と真情が同じ土俵の上に現れる稀有の場だ。
おお、目の前で、垂れ下がっていた瞼がゆっくりと上がって、細い裂け目が走り、じわじわと顔の上面が横に割れていくぞ。
その向こうには、魂が黒目と一緒にでんぐり上がった後に露わになった白目が、丸出しの、濃ピンクに血走った灰白色の脳として見えてきた。
幻想をもはや脳によってかなぐり捨てられて反映しなくなった目は、直の、生の、脳味噌そのものだった。
これは独特だ。たまらん。
僕は、怖気づき、身震いし、目をそらした。
羅城門の向こうに土砂運搬者達は消え、内裏の手前で食料運搬者達は左に折れて倉庫街に消えた。子ども達の声も止んだ。
朱雀通りとしては、まことに稀な、誰もいない、何の音も聞こえない一瞬が訪れた。
この状況に引き込まれ、いつのまにか僕とヒトミは息を詰めていた。酔っ払いでさえ、不審な静謐に呑みこまれて呼吸を控えている。
遠くからか奥からか耳鳴りが聞こえてきて、たちまち強まったが、これが本当に音響かどうかはわからない。静けさもまた強まったように感じるからだ。
極端が極端を誘発した。この極端な静謐が、あの極端な騒擾に反転した。
戦争から帰ってきたその日の、朱雀と内裏の乱痴気騒ぎとおぞましいパフォーマンスが、目の前の光景に取って代わっていく……
72)
ブラザーに背負われて朱雀通りに入ると驚いた。
羅城門から朱雀門まで、通りの左右から何本もの笹竹が三十歩ほどの間隔で突き出ており、その湾曲の頂点は天井近くにまで達していた。竹は、側溝の壁側や中央に、根元の先を尖らせて突き刺さし、道側を少し削って立てかけてあった。極彩色のランやブーゲンビリアの茎を縦に割って穴をあけ、そこにまた茎を通し、これを繰り返して長い房となし、最後に蔓で結わえ、花弁を下にして垂らしてあった。オレンジ色の実をつけたカラスウリや紫色の実をつけたアケビの蔦が絡まり、茶の枝が引っ掛けてあり、花や実には昆虫が羽音を立てて飛来し、朱雀門へと吹く微風によって揺らめくたくさんのターゲットに目移りした後、意を決してひとつにしがみついた。穴をあけた貝殻も細く裂いた竹の皮で連なり、ぶつかり合って涼しげな風鈴の音を立てていた。
羽音や風鈴の音より遥かに大きく姦しく多様であるのは女達のおしゃべりの声だった。兵士の女房達が、朱雀通りの左右を埋め尽くしていた。子供はいない、乳母もいない、妊婦も、見たところではいなかった。出征の際には妊婦はいた。亭主が帰って来ない可能性が高いので胎教に悪いとでも判断したのだろうか。子供を見かけなかったのも似たような慮りがあったからだろう。女達は、自分達の住居がある横道が通りに出たところにとりわけ沢山群がっていたので、朱雀通り全体が、節を抜いた跡の残る一本の竹のようだった。側溝と壁との間の細い棚の上で、壁に張り付いている女もいたし、中には側溝に降りて縁に腕や顎を載せて、群衆の隙間から通りを窺う女もいた。
僕は女だけが沢山集まると独特の匂いを発することを初めて知った。
ホールや広場に押しかけるのは禁止されていたようで、それなりの秩序は保たれていたものの、彼女達の興奮度はきわめて高かった。右に左に、あるいは後ろに、顔や体の向きを頻繁に変えながら、金切り声をあげておしゃべりに余念がなかった。例外はいないかと探してみると、確かに孤立し、立ち尽くし、一点を凝視している女もいないではなかった。ところが、凝視している対象が僕である女と目があってしまった。見覚えのある女だった。焦って海馬に鞭打ったあげく、その女がヘレンの友だちの友だちの友だちの……浮舟であることが判明した。彼女が僕をはっきり覚えているという様子は見えなかった。しかし、ここに来てからの僕を見て、その僕を思い出しているという様子でもなかった。こちらが凝視し始めたせいでなのか、彼女は顔を背けた。僕の動揺はいくつかの予想のせいでいや増しに増した。案の定、マドンナの横顔を見つけた。まだ他にもいるだろう。彼女らがここいるということは亭主持ちだということだ。亭主持ちで子供がいない女は帝国では珍しい。ヘレンの子供が僕の子供である可能性があるように、彼女らの子供にもその可能性がある。
若気の至り、少年期の過ち、だったのだろうか?
性欲を発見し、それに熱狂し、彼女らの戦略に軽々しく乗ってしまった。彼女らなりの生存の原則、遺伝子奪取の戦略があったとしても、僕の責任は免れないように思う。なぜなら、その原則や戦略が誤解に基づくことを、その当時僕はうすうす知っていたように思うからだ。その説明は困難だろうと勝手に判断し、ろくな努力もせずに放棄して、快楽に走ったのがあのときのガキだ。僕だ。右足の痛みは続いていたが、回想もまたずきずき痛かった。
僕は深い反省に取り掛かろうとした。もう一つ、ヘレンを見かけた時は、雄叫びを上げたのに、彼女達に対しては実に実に控え目であったのはなぜかという疑問も明らかにしたいと思った。
妄想にふけり始めた頃、女達のひときわ鋭い嬌声が羅城門の辺りから聞こえたので、振り返った。載っているブラザー、前を行くモーゼ、ガードマン達は振り返らなかった。
門の向こうに上下に揺れる男達の頭がいくつも見えた。兵士が帰って来た。ということは、崖下の殺戮が終わったということだった。みんな死んで燃えているか燃え尽きたということだった。
その時点で既に奴隷達は殆どが戻っており、日常の業務に復帰していた。ブラザーたちは広場で捕虜の教育に従事していた。崖下で僕から引き離されたヒトミも、休む間もなく烏丸の掘削現場に駆り出されていたそうだ。
さて、女達のおしゃべりは、あっという間に、おなじ文句の繰り返しになった。
来た、来た、帰って来た。来た、来た、帰って来た。