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ネヴァーランド

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この理念を打ち立て、この理念に従って、君達はある時から生き始めた。以後はこの理念を思いやらない。もはや鉄則だからだ。善も悪も脱却したことを誇る。有無を言わせない、言わない。命がけであることを誇る。共同の運命にいぎたなく安堵する。本能にではなく理念に促された実践。ちっ、ちっ、浮いてしまった。時間の錘がなくなった。貨幣に兌換のための金や銀がなくなったように。価値に労働力がなくなったように。理念が運命を紡ぎだすのだ。
君達、時間が超越的なパラメーターとでも思っているのか。個々の生命体が自分の体の一部として作っていくのだ。それが君らには欠けている。固有の時間という錘を落としてしまった。
生きものの目的は生きることだ。世代をつないで生きていくとはどういうことか。必死の時間稼ぎだ。
これを悟り、そう生きようと理念化したとき、逆説に陥る。逆説を生きることになる。やがてサイクルは短くなり、早く子供を作り、早く酔っぱらって、早く死ぬことになるだろう。生命のモデルは、個と集団を結ぶカテゴリーとファンクターというよりも、自分と同型な構造を部分として含む入れ子構造になっているが、数学での場合と異なり、これは無限に続かない。当たり前だ。生命は分子以後のレベルで成立している。原子、あるいは擬似原子レベルの違和現象は脅威としてしかありえない。たとえば癌。
そして、入れ子の一つである個体は、定常流をなす一粒子として、瞬時に流れ去るのだ。
これを知ったとき、君らはデカダンスに陥ったのだよ。
うーん、ほとんどだれでもそうなるなあ。
ひとたび集団自殺の意志を固めたら、もう気もそぞろ、悲劇を突っ走る。外部からの批判がないもの。野性でも本能でもない理念は自然からの批判がない。あっても読みとれないのだ。
時間稼ぎが、時間放棄になる。大切なものが、うざったいものになる。
植物のどの一株も、動物のどの一匹も、個としての生が悲劇だなどと自覚していない。
君達だけがそれに気づいた。モーツワルトなんぞ、気づいていたとは思わないぜ。あの、永遠の、小児。
命とはこんなものであったのか、という認識の後の生存を、君らは生きているのだ。その認識についての驕り、そして落胆が見え見えだぞ。
その認識は、実は、正しい。
誰も反証を挙げられない生命の秘密だ。
で、君ら、ふざけたやつらは、とどのつまりが、酔っぱらい人生をだらりだらだら続けてその果ての、特攻隊となって果てる。
ここが、君らと僕の違いだ。僕が違うという自信は実は脆弱だ。だが違うようにと思っている。願っている。少しずつここで実践してきたと思っているのだよ
全滅の可能性があると父は言った。今でも言っているよ。今でも僕は聞いているよ。
なぜに全滅か。
それはねえ、君もその一つである構成要素が、個が、劣化するからだ。
僕が今目の前にしているザマが、君が、具体極まる具体例だ。
周囲に圧倒的な覇権を誇っていようが、やがて帝国は崩壊する。だって君みたいなクズたちから出来ているのだからね。時間を稼ぐための生命が時間を短縮していくのだ。劣化を早く取り除くためにサイクルの周期が短くなる。これには限界がない。自己矛盾を激烈に生きる、あるいは、死ぬ、のだ。崖から雪崩を打って谷底へ跳びこんで行く。
僕は何のために君達を追ってここに来たのかわかってきたぞ。
助けるためではない。
批判し、破壊するためだ。君達を、同時に、僕を。
僕達は、可能的には、必死の生命のひとつでありながら、生命全体に対して叛意を唱える集団畸形であって、さらに、最終段階で判断を誤ったらしい。
さっさと滅びるべきかな?
生命に対して、理性の介入を、君達だけがした、と僕はついさっき言った。
だが、本当にそうなのか。
ここに、つまり地理的にだけではなく、発達段階としてものここに、その終着地点であるここに、たどり着くまでの時間が短すぎる。
あの安楽な施設ニッポンに居続けてたら、僕達は子供のままに老いて死んでいったろうさ。
だが、僕達は勝負に出たんだ。
僕はほぼ単独で、ここまでの旅生活を過ごしたので、大量の驚異の経験に浸潤され、鍛えに鍛えられ、すれっからしになったものの、社会意識の発達がなかったと慙愧に思っている。野性はあったが社会がなかった。くだらない独白に悩まされた。
君達のような旅団はそうではなかった。社会意識の発達の契機は瞬間瞬間訪れただろう。うらやましく思う。
それにしても、やっぱり不思議だ。
蟻や蜂が共同体とその内部の階層を作るのにどれだけ時間がかかったか。君達は超高速で結末までやってきた。僕は感心し、劣等感さえ感じたものだ。
だがね、自然な試行錯誤ではない疑いがある。
試行錯誤には、苦しい、先の見えない、あせりまくる、眠れない、暗澹たる、若い時間の浪費があるのだよ。あの朝のまどろみに、垣間、味わった、光り輝く万能感、神になったような恍惚とは裏腹にね。科学する若者は必ず経験する。
ところがこの結果を見ると、その痕跡が見えない。別に、君らが科学していたとは思っていないよ。君らの行動と意識にそれに類する直感と試行錯誤の痕跡が見えないのだよ。
神の見えない手がはたらいたかのようだ。神の指し示すまま、中央突破した感があるな。
君らを馬鹿にしているのではない。君らの必然を、君らは誠実に生きたのだろう。もんだいは、何に、誰に、誠実だったのか、忠実だったのか、ということだ。
現実的になろうじゃないか。
神なんかじゃない。あの人が、僕達の先生が、僕の父が、君達にささやいたのではなかったか。
全滅の可能性も考慮の上でささやいたのではなかったか。
かく生きるべし、と。
だとすると、あの人は神ではないのがはっきりするだろうが!
正真正銘の悪魔だろう?
ああ、畏れ多いことを言ってしまった。
ごめんね、お父さん。

71)

君達だけがふざけた存在ではない。僕もふざけた存在だろうさ。
同じ施設で育った同世代の仲間だ。同じような教育を同一者から受けた。その彼以外を媒介とする知識はなかった。選択の余地はなかった。出来上がった存在が似ていない方がおかしい。
注意すべきは、共有する経験を懐古する引力に依拠して、牧歌的な、われら感、を言っているのではない、ということ。
僕らの厳しい、特別な与件を喚起しているのだ。
そしてね、僕がふざけた存在であってもなくても、君らはふざけているのに変わりはないんだよ。
僕がふざけているから、君らをふざけているという資格がなく、君らはふざけていてよい、とは思わないんだ。そういうふうな、お前はなんなんだ、お前に言われたくないよ、という居直りは認めないよ。そう言ってふざけた態度を改めないだらしないやつらをつくづく不快に思うし、追求をやめない。君らと同じに相対主義者だが、時々そうではなくなる。発言内容と発言者の立場を込みにして、内容の相対性を主張するのは一見妥当だが、いやらしい弁解の場合が多い。僕もふざけっぱなしなら、同時に僕自身を不快に思い、追及をやめないことを誓うよ。だから、そうしてどこが悪いんだとこちらも居直るぜ。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦