ネヴァーランド
横道と大路の間の側溝には、竹、あるいは丸木で短い橋が架けてある。時々幼児が転げ落ち、溺れる。周りに大人がいない時や、いても無関心な大人である時には、すぐに死ぬ。親が探し当てて遺体を引き上げることもあるが、廃棄物に混ざって捨てられる場合のほうが多い。また産めばいいとでも思っているのだろうか。
酔っ払いもよく落ちる。流れは浅いが、廃棄物を吸って死んでしまうやつもいる。妻達は行方不明の夫を探すのにあまり熱心ではない。お宅のだんなが溝で死んでるよ、と教えられても腰を上げない女さえいる。男はすぐ死ぬものだとでも心得ているのだろうか。
そういう幼児や酔っ払いは、もうゴミだ。幼児は奴隷に蹴られ続けて溝を経巡り捨てられる。酔っ払いは、ブラザーにピックアップされた奴隷二名が通りに押し上げ、各々一本ずつ手を受け持って引き摺っていく。
一般に市民は、死んでから間もない眼前の死者に対しては哀悼の意を表すが、しばらく時間が経つか死者が視界から消えるかすると、死者のことを忘れてしまうらしい。ある者を死んだとみなした場合も同様だ。僕は今まで例外を見たことがない。単に薄情だからではなく、もっと根本的に、強烈な適応圧がかかっているから、さらには、脳の機能がそうなっているからだとしか思われない。
酔っ払いは、橋の真ん中で、顔をむこうに向け、うつ伏せになってもがいていた。
体が橋の左側にずれて肩が左の縁より外に出ている。上体を起こそうとして腕を伸ばすのだが、左腕だけが空を切る。何度か腕が上下方向に屈伸する。わけのわからないままに意を決したらしく、右腕だけで起き上がろうとした。背中が徐々に持ち上がってきた。
僕は駆け寄ると、ゲロと糞便の激臭に怯まず、突っ張った右腕の肘と手首をつかんだ。両手の下に、一瞬ずれて打つ、あわただしくて強い不整脈を感じた。ゆっくりと手前に引いて右腕を伸ばさせると耳の横に置いた。ヒトミがおろおろうごめくさまが視野の縁に見えた。次に、左の肩を両手でつかんで体を仰向けにひっくり返した。逆さのむくんだ顔が僕の眼下に現れた。背中が橋についた拍子に口が開き、噴水のようにゲロが発射され僕の顔を撃った。ヒトミの悲鳴が聞こえた。かろうじて目はつぶったものの避け切れなかった。
なるべく息をしないようにしながら、両肘で顔をぬぐう。酔っ払いが苦しげに裏声で叫びはじめた。右腕を引っ張ってうつ伏せにした。ゲロが喉に詰まったようだ。頭の毛をつかんで顔を前に向けさせ、汚いケツから目をそむけながら腰を抱えて両膝をその真下につけさせた。膝とケツと喉とで直角三角形を作った。左手で腰を支え、右手で背中をたたく。だが、距離が足りないし、竹がしなって腰がゆらつき、倒れそうだ。ヒトミ、ここを支えていてくれ。ヒトミは竹を鳴らしながら僕の背後を走り、傍らにかしこまる。ここ。右手でたたき続けながら、左肘を小刻みに揺する。顎を左腕に押しつける。急げ。ヒトミの腕がおずおずと僕の左腕に伸びてきた。違う、違う。ここ。腕を離す。ここ!。指差した。ヒトミは慌ててケツを抱きしめた。
横に一歩ぶん跳んでから座り込み、両手で酔っ払いの肩甲骨のあいだを数回思い切りたたいた。裏声がやんだので、体を傾けて酔っ払いの横顔を見た。口の前の、あぶくだらけの吐瀉物が、竹と竹の隙間に吸い込まれていくところだった。
大路の真ん中まで運んでいこうとして横から吐瀉物まみれの胸の下に手を回した。ヒトミはそれを見て抱いているケツを持ち上げた。しかし数歩進んだところでヒトミが声を挙げた。同時に、持ちこたえられずにケツを落とした。その余波でこちらも落としそうになって、やや乱暴に体を置いてしまった。下から唸り声が聞こえ、石灰が少し舞った。振り向くと、裏を見せて放り出された両足先が埋め込まれた丸竹の端に接していた。
酔っ払いはなにやらつぶやきながらゆっくりと体を横に向け背中を丸めた。震えているがもちろん寒さのせいではない。
むくみの中に目が埋没した顔の前に胡坐をかいて坐った。二度、三度と深呼吸をした。
肩に向きの変な微風が当たるので横を見ると、ヒトミが右やや後方で両手をついて正座し、いかにも耳を傾けるかのように右の頬を相手に向けながら上体を僕のほうに傾けていた。正面に向き直った。ヒトミの吐く息が肩に当たっている。
訛っている上にろれつが回らない謎の言葉に僕も耳を傾ける。
何と言っているのか。
興味深いが成果の上がるはずはない作業にとりくむ。
打消しの命令形を聞いているように思う。
するな、やるな、かな。よけいなことをするな、かな。
君、よけいなことではなかったんだよ。
君を助けたのは、君のためではない。僕がついこのあいだまでその一員であった奴隷達の労働を軽減するために過ぎない。君の死体から魂が抜けたとしてもわずかに軽くなるだけで、そのふやけきった図体は、彼らの労働をちょうど君の体ぶんだけ増やす。かつての仲間達の、負担を少しでも軽くするために君を持ち上げて運んだんだ。君のことが心配だからここに坐っているのではない。息が切れたから休憩しているだけだ。足も完治していないし。
僕は、わざとらしく、右足首を撫でた。
ほっといてくれ、とも君は言っているかな?
価値があるものに周りは関わる。僕が関わったから君に価値があると思うのか。ほっといてくれ、には、かすかに傲慢が混ざっているぞ。さっきから言っている。奴隷達のために君を助けたのだ。彼らが僕をなんと言っていようとね。僕は君に価値を認めていない。君はふざけた存在だ。君達は、圧倒的多数を占めてはいるが、やっぱりふざけた存在なんだよ。
70)
君らの生態を観察して君らの信条を探り当てるのには随分と時間がかかった。単なる観察ではなく、参加して、生きて、死にかけた果ての結論だ。その信憑性には僕の生存がかかっている。
世代交代。どの部分を見ても、停滞はない。どこをとっても定常流。その流れが閉回路を作る。閉回路どうしは歯車のようにかみ合って連動し、素材の海に浮いている。全体として閉鎖系を作る。代謝。ホメオ。痩せこけた赤目と君ら飽食にまみれたデブがどんなにかけ離れた存在であることか。労働力とインフラの安定した供給。食料、吸収、異化、排出。環境に対しては安定した開放系をなしているね。戦争を含めて外部に対してのきっぱりした免疫システム。僕にはよくわからない方言と全くわからないテレパシーによる伝達システム、合意方式。まさに神経系だ。リーダーを支える市民間の奇怪な平等。まことに合理的なこのシステムを簡潔になんというべきか。
生命だ。
しかし、僕は、君達が一斉に陥った錯覚を見逃さない。
このシステムには、理性が介在している。
野性と本能に基づいてはいない。生命の実相とはかくなるものだという理性の解釈が介入している。生命の原則に則ったかのようななにものかをモデル化している。
この一点が帝国全体を自然とはかけ離れたものにしているぞ。
命令され洗脳されてそう考えたのではないなあ。自分達の、個々の判断と、判断の応酬の末に得た共通感だ。まさに市民感覚!