ネヴァーランド
頬を軽くなぜ、緩く胸に抱き、トヤト、ウコニ、モコニ、よくやった。わき腹を小突き、目を見開いてぐりぐりまわし、チョボニ、タンホニ、アジャリ、活躍は聞いているぞ。オーッと唸り、ホジャリ、シュビチ、ハンボシャ、さすがだった。肩をたたきながら耳元でささやき、ロロ、ホスニ、トシト、ありがとう。イリ、ミリ、危なかったな。チシュリ、うれしいなあ。ギャホリ、忘れないぞ。目を見開いておどけ、ギャタトンキ、センダリ、俺でもかなわんよ、と逃げるふりをする。
正確に識別して、個別の名を呼んでいるかのようだが、呼んだ瞬間だけ、彼らはトヤトになり、チシュリになり、声の余韻が消えるとともに匿名の群衆の中に消えるのが実際のところだろう。
これほどに嘘っぽいことを、モーゼは堂々とやり、されるほうもそうとわかっていて、淡々とされっぱなしだ。
彼らがすでに充分に大人になってしまっていることを再確認させられた。僕はちっとも成長していないのに。数秒間だったが、劣等感にさいなまれた。
67)
五六人の男たちが、車座になって、地面をにらんでいた。男Aが、絵を描いている。震える指先には、タニシと思われる巻貝の半欠けが握られていた。男は、腕の震えをおさえるために、右ひざを立てて右の肘を内側からそれに押し付けていた。身を屈めて男Aの肩越しにその絵を見た。粘土とその上を覆う黄砂をえぐって描かれた線画は、鳥辺野であばれた恐竜のように見えた。胡坐をかいてその絵を批判的に眺めていた男Bが、タニシを奪ってその手で恐竜の頭を消し、描き直した。確かに長い耳が強調されていて僕の記憶にもより近い。眠っていたかと思われた男Cが、人差し指で新たに合同である恐竜を描いた。少し傾いでいる。男Dが声を挙げてタニシをひったくり、また合同図形を描いた。さらに傾いでいる。僕は意味がわかったので興奮してしまった。彼らは星座を描いていたのだ。屈折部分に星を想定すると、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタが頭を形作り、デルタ、アリオット、ゼータ、伴星アルコルが背骨となり、ゼータとアルコル、アルカイドが尾にあたる。三つの合同図形は、北極星を中心にして回転していることを表わしていた。あの恐竜が北斗七星に化けていた。
僕は、男Cの正面にいる男Eの後ろに回り、その尻の脇の地面に×印を付けた。AからDまでの男はすぐにわかった。Eは、×印と三つの合同図形を交互に何度か見てから、大きくうなずいて、北極星であることを了解した。それが許可の合図みたいに見え、ぼくはDとEの間に分け入って座り込んだ。彼らは僕を見つめている。警戒しているが期待もしているようだ。ついつい、星雲のこと、宇宙のことを語ってしまった。父との対話を思い出し、思い出し、しながら。僕がしゃべっているのか、父がしゃべっているのかわからなくなってきた。
「リーマン幾何と一般相対性が結びつく直接の必然性はなかった。幾何と物理は一応の独立性を持っていた。あの結びつきを幸福な出会いと見るかどうかは疑問だね。出来合いの道具が揃っていたから、アインシュタインは大急ぎで学習して利用したが、微分幾何の文法に拘束されたという面もあるな」
「リーマン幾何なしでやれるの?」
「徒手空拳でいく手はある。ただ重力に関する限りでは、ニュートンだけでいける。アールを時間で二階微分したものが、アールの平方に反比例するとしておけばいい。量子力学でも、シュレーディンガー方程式を使わずに、拡散方程式でほぼ同じ結果が出せる。拡散方程式はニュートンから出てくるからね」
「リーマン幾何を使わないでやるとどうなるの?」
「どの質点も相互に加速度的に離れていく。たとえば、朝目覚めると、すべてのものが昨日の二倍になっていたとする。それにお前は気づくことが出来るかい?」
「そうか。測定装置もなにもかもが二倍になっているんだから気がつけないね」
「しかも加速度的に膨張していくのさ」
「目が回りそうだ」
「見掛けの安定性のために誰も気がつかなかったんだ。コペルニクス的転回だ。重力質量と慣性質量が同一であるのは当然のこととなる」
「どのスケールでも成り立つの? 核内でも?」
「不思議なほどデータと合うよ。初期値によっては、ある閾を示す場合がある。それが微小領域、つまり素領域の境界面を表わしているのだろう。素領域内では加速度が弱いと出る。だから粒子達は比較的自由だ」
「自由である理由はなんなの?」
「自由度が高いのは、次元が高いせいだ。数学的にはほとんど同語反復だ。素領域では次元が高いのだろう。ただし、というより、だから、単独に粒子を取り出すのはきわめてむずかしいな」
「どうしてなの?」
「例えばお前がドギーとじゃれあいながら廊下を歩いていたとする。すると廊下の両側の壁が段々近づいてくる。お前達は体をくっつけあう。揺らぎ、を失う。左右には身動きできなくなる。左右だけでなく前後も上下も狭まる。そしてとうとう重なってしまう」
「えーっ、そんなこと、ありえないよ。いくら仲が良くってもね」
「余次元がまだ充分に残っているから重心の重なりがありうるんだ。球体と球体では重心は一致できないが、線分と線分、線分と円板は重心でだけで交差できる。三次元空間では、これらの場合のほうが、余次元数が大きいからだ。
こうなったらもう一つの粒子だよ。引き離すことは不可能だ。
では、お前達を丸ごと外に取り出せるだろうか。それもまたむずかしい。事態はさらに切迫してくる。一体になっても、外の世界を目指して何らかの方向へ移動する限り、壁床天井は容赦なく狭まってくる。閉じ込められていたことを悟るのだ。マクロ世界に出ようとしても次元の縮退が起きているので不可能なんだ」
「僕とドギーは、いくらもがいても外の世界には出られないの?」
「そうだが、お前は別のことを言っているようだね」
「へんな探りを入れないでよ、お父さん」
「お前の線で、興味深いことを付け加えよう。集団的に粒子が結合すれば高次元の微視世界を突破できるのさ。二個の場合は激突しか手はない」
父はこう言った後笑ったと記憶している。
「では、マクロ世界ではどうなってるの? 」
「加速された物質はやがて光速に近づく。それにともなって加速度が落ちる。重力が消えていく。これは一方向的だ。一回限りだ。膨張と収縮を繰り返すというモデルは観測事実に反している。スーパーカミオカンデの真の功績はこれを確かめた点にある」
「スーパーカミオカンデ?」
「地中の池を放射線の検出装置にしている施設だ」
「ふーん。じゃ、膨張していってどうなるの? 宇宙の果てはどこなの?」
「重力の消えたところが宇宙の果てだな」
「その向こうは?」
「質量のない世界だ。光だけが飛び交っているだろう。暗黒の宇宙に、恒星や星雲が白く輝いているのが我々の戴く天だが、それとは正反対に、神は、光り輝く白熱の世界の中で、我々の宇宙も含めて点々と散らばる無数の黒点を見ているだろう」
僕は、呆れた顔をして我慢を続ける男たちに、相済まないと思い始めて、話を打ち切った。父からの受け売りを、悪臭ふんぷん!、わめきちらしてしまったのだ。