ネヴァーランド
僕はヒトミを蹲らせて背中をさすって置いておき、沢山の脚に蹴飛ばされ、臭い尻に押しのけられながらも、千年杉の根のように節くれ立ったふくらはぎを目標に、這ってモーゼのそばに近寄ると、立ち上がって彼の手首をつかんだ。つかむことが難しいほど太い。あっさり振り払われた。よろめいたが踏みとどまる。モーゼの顔をあえて見ずに、千年杉の幹である太い胴体の向こうに隠されようとしているニンテンドーを指差した。分厚い八手のようなものが迫ってきて、その指を横にはたかれた。大変な力だ。突き指してしまった。めげずに、退いていく八手の根元を、両手を絡めて指差した。左足に体重を乗せて、逃げる手首に跳びついた。目の前になつかしいニンテンドーがあった。ニンテンドー仕様であり、実際は父の手作りだ。だから父に会ったような気がした。植物油かなにかで磨かれていたらしいせいで今は土ぼこりがととらぱとらに張りついている。その下に、花に囲まれたモーゼのイラストが拙く描かれている。ベルトの両側に肉が盛り上がり、いつベルトを切らんかという勢いだ。痛々しい。これを巻いた時からさらに太ったのだ。つばを吐きかけ、土ぼこりをぬぐい、周波数を合わせようと取り掛かったところで腕を振られて吹っ飛んだ。ブラザーに膵臓のあたりを蹴られた。
気絶したふりをする。タダヨシ、と声がした。首を振ってなんでもないと知らせた。
ヒトミが精一杯ジャンプし、右往左往し、ブラザーにぶつかりながら、ガードしているのを確認して、また跳びつく。
思い出した。この恐竜は、吾郎が川原で喧嘩し、顔面を削って撃退した相手に形や動きが似ている。咆哮の音質とリズムも同じだ。ここいらあたりと見当をつけ、そのバンド内で周波数を小刻みに変動させながら、ボタンを連打した。神がいるとはちっとも思っていないが祈った。
恐竜が長々と悲鳴を上げてのけぞった。長い首は尾てい骨のそばまで折れて、頭頂を尾が打った。一瞬出来た輪が回り、たちまちばらけたが、体は燃える斜面をずり落ちて、短い体毛が焦げた。尾の端には長い毛が房をなしていて、それに火がつき、燃え上がった。体から生え出た導火線に点火されたかのようだ。恐竜は、熱さに耐えかね振り返ると、火がついている尾に仰天し、反対側に体を捻じ曲げて逃げるが、そちらに振れてきた尾に直面し、慌てて顔を背けてまた反対側に、と、パニックに陥ったまま左右の反復運動を繰り返した。その反復から脱し、燃える尾から逃げようと、長い咆哮を繰り返しながら、火葬場を駆けめぐり、沢山の黒こげ死体を踏み潰し、跳ね上げ、尾以外の体の部分にも火をつけてしまった。ああ、もう、行け、行け。さっさと行け。見ていられない。
サバンナで転げ回って火をやっと消したが、すでに疲労困憊、よろめきさ迷い、焼け焦げて骨の折れた尾を引き摺りながらジャングルに倒れ込んだ。
肩甲骨の間を押された。モーゼが押したのだ。まだしがみついていた手首を離し、振り向いてモーゼを見た。こんなに近くで見たのは初めてだ。
神像のように無表情な大男だ。頭が禿げている。半眼が、僕を見下ろしていた。
その後の数日を夢見心地で過ごした。
えんえん酔っぱらい続けた。しらふがどんなであったか、わからなくなってしまった。
足の傷は治ったが、軽くびっこを引くという後遺症が残った。
モーゼの側近になった。
ヒトミは僕の私設秘書だ。
連日の戦勝パーティーを、モーゼ、小モーゼ、白っ子、ブラザーズ、ハットリらとともに渉り歩いた。時々ヘレンが加わった。
65)
「おはよう、タダヨシ」
父の声ではない。
目が裂けたかい?、と続いたが、僕は驚かない。昨日の朝も、そうだった。学ぶ者であるヒトミはこれでも真剣なのだ。
眠りに落ちたときと変わらない僕の部屋に朝が来た。
僕が目覚めるときが朝だ。
昔と異なり、様々な体験の結果、僕の体内時計は外界とリンクしているので、外の世界では夕闇が迫っていることがわかる。何十メートルにもわたる厚い岩盤の向こうに、僕は外の世界を透視した。
鳥辺野の白煙が揺らめき立ち、その向こうに濃く薄く、赤い夕陽を全身に浴びた入道雲が、崩れようとしていた。
僕は薄目を開けて、陽の匂いを放つ葦のマットから、何本か突き出ている茎の隙間を通して、正面を見た。視野の端に入り口が見え、ヒトミが床をスポンジで音を立てて擦りながら僕をちらちら見ている。
部屋の壁には地下水がにじみ出ている。湿度百パーセントの空気が持ちこたえられずに出す結露も降りる。その水分を無数の吸水管で飲み込みながら粘菌がはびこる。濡れた地の模様にあわせて体色を変えながら部屋を内側から覆っていく。毎日どころか、一時間毎に部屋の内装が変わるのだ。床にはほとんど拡がらない。僕たちが歩き回るし、ヒトミが掃除を怠らないし、石灰の粉が撒いてあるからだ。行き場がなくなると天井と壁から一斉にはがれて自殺する。そしてまた初めからやり直しだ。僕たちは三日前の夜にこの自殺に遭遇した。たまたま見ていた驚愕夢が驚愕的現実となって僕を襲った。実際は、眠らずに働いていた一部の感覚器官が異変を察知して夢に変換していたのだろう。切り刻んで運び出すのに半日を費やした。見た目は肌理の荒いケーキのようだ。食べてみたが美味くはない。
ヒトミが這って近づいてきた。まだ横倒しのままの僕の顔に合わせて、首をほぼ水平に傾けた。
両肘を曲げ、僕の顔に自分の顔を、鼻先が接触するくらいまで近づけて、再び、おはよう、タダヨシ、目が裂けたかい?、と言った。
ヒトミの瞳は左右に離れすぎていて、僕は同時に二つを見られない。いったりきたりを繰り返しながら僕は起き上がる。ヒトミの顔もそれにつれて垂直に戻る。その間どちらも瞬きをしなかった。
かすかにずれた二つの魚眼像がそれぞれの瞳に映っている。近頃僕はこれらを鏡代わりに使っている。二面鏡を交互に見るのを止めて、目の焦点をヒトミの脳幹に置くと、瞳が相寄ってきて重なり、僕の立体像が現れた。
ヒトミは僕を当然立体視しているが、僕はヒトミを立体視し、その後左右にずれた立体の共通部分に、僕自身を立体視する。
ヒトミの脳の中に潜む、僕に強い関心を持たせ、僕を愛させる根源をなす神秘の物質のありかは、僕の立体像が邪魔で見つからなかった。
僕の部屋は、施設の部屋と同じぐらいの広さだ。ただし長方形ではなく楕円形だ。入り口は、左からの土塀と、右からの土塀が、中央ですれ違いになっているので、外からは覗けないようになっている。上流市民向けのつくりだ。入り口の向かい側の壁には、ベッド用の横穴が七個穿たれている。以前住んでいた家族の員数にあわせてあるのだろう。彼らはどうなったか。
恐らくは、主人が戦死し、その妻は子供達を連れて、新しい配偶者の住処に移ったのだろう。
戦争のたびに死ぬので、成年男子の人口は、女子の四分の一くらいだ。だから、一夫多妻とならざるを得ない。一家族が、二部屋、三部屋を占める場合も珍しくない。
家族の改変は、終戦直後に、あのいまわしいプルターク交歓会によって成就される。